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【福祉について】「やさしさ」と「思いやり」を考える その2

前回に引き続き「やさしさ」「思いやり」について、そして「愛」についても考えるとともに、それがあることで得られる結果、効果などを、できれば具体的にしていきたい。その前に、「やさしさ」「思いやり」に関連することとして「親切」について少し考えてみたいと思う。
ちなみに前回はこちら

人に親切にする、ということは誰もが小さい頃から教えられてきていると思う。その「親切行為」は、人に対する「やさしさ」「思いやり」から生まれるものといえる。
自分が受けた「親切行為」で、深く記憶に残っているものがある。
以前に書いたオーストラリアの緩和ケア研修を受けに行った時、滞在していたメルボルンから一人で日帰りツアーでグレートオーシャンロードに行った時のことだ。

グレート・オーシャン・ロードの風景

バスの休憩ポイントで昼食となり、ひとりで上の写真のようなところを見学して、ベンチで休んでいた時、風がそこそこあり、コンタクトレンズをしていた眼にゴミが入り痛くなったため、レンズを外してから目薬をさそうとした。そして、コンタクトレンズを外した途端、風で飛ばされてしまったのだ。下は芝生のような草が生えていて飛ばされたレンズはどこに落ちたかわからない。持ってきていたレンズはそれしかなく、メガネも持っていなかったため、ここで無くしたらこの後の旅がどうなるかと、ものすごく動揺し、あたりを這いつくばって必死に探し回った。
そんな時、おそらくオーストラリア人だと思うが、白髪の老夫婦が心配して近づいてきた。自分は片言の英語と身振り手振りのジェスチャーで、レンズが飛ばされて探していることと伝えると、その老夫婦は、なんと自分たちのランチを中断して一緒に腰を曲げて探し回ってくれたのだ。杖をついて歩いているような方だったが一生懸命探してくれていた。どのくらいの時間探したか覚えていないが、休憩時間も決まっていたのでかなり焦っていて、ランチも食べずにさがしてくれている老夫婦の方にも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。その時!なんと奇跡的に、小さいレンズを草の中から見つけた!
自分で見つけたのだが本当に奇跡としか思えず、大きな声で「あったー!」と叫ぶと、老夫婦の方もすぐに近くに来て一緒に大喜びしてくれたのだ。レンズを見つけられたことよりも、その老夫婦が心配して、一緒に必死にさがしてくれて、喜んでくれたことが本当に嬉しく、そのあとひとりで感動して涙した。このことは、見知らぬひとから受けた「親切行為」として、自分にとって一生忘れることはないできごとになっている。このことを思い出すと今でも心が暖かくなり、自分の中に「やさしさ」「思いやり」が満ち溢れてくるような感覚になる。

なにかの記事で読んだことがあるが、ちいさい子どもがおともだちに親切な行為、おもちゃを貸したり、していることを手伝ったりする利他的な行為をすることで、それを見ていたまわりの子どもたちが、その子に親切に振る舞うことが研究であきらかになったという。これは子どもに限ったことではなく大人であっても人から受けた親切が、何か心のどこか「良心」と言われるものに反応して、人のために役に立ちたい、という感覚が身につくことがあるのではないか、と思う。
他人を利する行為、利他的行為を行うことの反対がわにあることはなんだろう、自己中心的な考え、行動になるのだろうか。よく「自分を大事にする」とか「自分を好きになることが大事」だという言葉を聞く。自分自身はどちらかというと自己否定型のタイプというか、決してネガティブではないが、自分のことを甘やかすとどんどん落ちていってしまうようなことがある。常に自分に何かしら課題を課して、それによって自分を追い込んでしまい、時としてそれがストレス要因になっていることがあるほどで、自分を大事に、自分を好きになる、という感覚を持つことができず、またそのような言葉にであうといつも違和感を感じている。

自分のことを好きにならなくては他者を好きになれない、という人もいる。確かに一理あると思う。しかしまず自分自身を知り、自分を律し、コントロールできなければ、自分を好きになることはとても難しい。好きになれたとしても、短期間で消えてしまう上辺だけの思い込みに過ぎない。
自分をコントロールできている人、本当の意味で自立している人だけが、真の自尊心を持つことができる。

『完訳 7つの習慣 人格主義の回復: Powerful Lessons in Personal Change』(スティーブン・R・コヴィー, フランクリン・コヴィー・ジャパン 著)より

他者に対する「やさしさ」「思いやり」を持つことにも通じることでもあるかもしれない。自分自身をよく知り、自分自身に厳しさを持つことができる人は、自分の中にある「自尊心」「良心」を表わすことができ、他者に対して寄り添い、尽くすことができるのではないだろうか。

他者に対する奉仕を考えるとき、「競争気質」もまた遠いところにあると思う。他者に対して勝ち負けを基準にして自分の存在を確認することに注力する人がいる。「勝つ」ことを好むのか「負ける」ことを嫌うのか、またその両方ある人もいるだろう。「勝つ」ことの感覚を得ることで初めて人に「やさしさ」を持つことができるということがあるのなら、それは優越感からくる「施し」とも言えるかもしれない。人との関係性を競争意識を中心にしてしまうと、本当の意味で相手を知り理解することが難しい。真の「やさしさ」「思いやり」は自分の内面の強さを持つことと、相手に対してのこころからの関心を持つことによって自然に表現されるもの得られるものかもしれない。

今回、「親切行為」から、自分の中から発する「やさしさ」「思いやり」について考えてみたが、「愛」との関係、そしてそれらがあることとないことにおける違い、その結果、効果までほりさげられなかった。また、次の機会に改めて考えてみたい。

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