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【福祉について】「やさしさ」と「思いやり」を考える その3

前回、前々回に引き続き第3回として「やさしさ」「思いやり」について、そして「愛」についてもさらに考えを深めてみたい。
ちなみに「その1」「その2」はこちらから


「その1」と「その2」の要約

以下は、AIにお願いして要約してもらったものです。

  • 「やさしさ」と「思いやり」は意識して行うものではなく、人のことを思う力から自然に生まれるもの

  • 善良な心や暖かな思いやりは、個人の幸福と社会全体の調和に不可欠

  • 「やさしさ」と「思いやり」は受け手の評価や感覚によって定義される

  • 福祉・介護の仕事では、技術やスキルの提供の土台に人のことを思う気持ちが必要

  • 「ケア」とは配慮の実践であり、相手の立場に立って考え行動すること

  • 「やさしさ」と「思いやり」は数値化できないが、その実践による効果は計り知れない

  • 見知らぬ人からの親切な行為が、「やさしさ」「思いやり」について深い感動とともに記憶に残るオーストラリアの経験

「やさしさ」と「思いやり」の本質

ここまで考えてきた「やさしさ」「思いやり」については、それぞれが同義ではないと思うが、「やさしさ」を持つ人が「思いやり」を示すことができるのか、「思いやり」を示すことができる人を「やさしい」というのか、その人の持つ想い、思考、人に対する価値を具現化し、その行動を示す言葉でもあると思う。どちらかというと、「やさしさ」は内面を表し、「思いやり」は行動を意味していることが多いのではないだろうか、そして、それは人と人とのコミュニケーションの中で表現され受け取ることができる。

「思いやり」が行動を意味しているとすると「気遣い」についてはどうだろうか。本質と表現方法に微妙な違いがあるように思う。この2つの違いを考えると、「思いやり」の方は、「やさしさ」により近い、感情を表す心の動き、想いを含んでいるように思え、「気遣い」については、相手への配慮や注意を払う具体的な行動のイメージがある。勝手な解釈になるかもしれないが、内面から行動への流れでいうと、「やさしさ」という心の内側にあるものが、相手の価値観や考えに合わせた「思いやり」の気持ちを持ち、具体的な表現、そして行動となる「気遣い」を示す、ということになるように思う。

「やさしさ」と「愛」について

前段で考えた「やさしさ」が人の内面に内在するものであると考えると、それは学び得ることとは違い、「愛」に近い存在なのかもしれないと思う。ここで考えたい「愛」は、恋愛のような限定的なものよりも広く、「人間愛」「慈愛」に近いものにあたる。「愛」についても恋愛〜家族愛〜人間愛〜慈愛というように個から全体への広がり、成長を得ていくものと考えることができるかもしれないが、実は、「慈愛」が人間の本質であり、すでに内在している「慈愛」「慈しみの心」「良心」といったものがあると仮定すると、生きていく中で、近しい個の関わりとして恋愛や子育て、人とのつながりや関係性から長く苦しくもある経験を得て、本質であるものとしての普遍的な「慈愛」に気づき生きる意味を知り境地に至るのではないか、と勝手に考えている。
というのも、日常の生活の中で、ちいさい「やさしさ」「思いやり」にふれてふと思い出す感覚が、もともと自分の中にある何かに反応しているように思えるからである。

「やさしさ」に包まれた時

あくまでも自分の場合、心の状態によるのだが、たまたま「やさしさ」に満ち溢れているときに得られる感覚がある。それは、前回にあげたように人から「やさしさ」「思いやり」の行為を受けたときや、人の行動や言動にそれを感じたり、そのようなエピソードを聞いたり、読んだりしたとき、または良い音楽や芸術にふれたときもそうかもしれないが、そのようなシュチュエーションで、街を歩いているときなど、周りにいる人たち、見知らぬ人々にたいする自分の受け取り方が変わってしまうことがある。大げさにいうと、「愛おしさ」「慈しみ」の感覚を抱いてその人をみている。その人がどのような表情をしているか、なんの話をしているか、年齢や性別、風貌は関係ない。自分の心の状態、心境により、眼にするもの、ふれるものの見方、受け取り方は大きく変わっていくのだ。ユーミンの歌で言うところの、「やさしさに包まれて」のフレーズで、そのときの状態、あるいは境地は、目に映る全てのことはメッセージになるような感覚である。ポジティブな思考で物ごとをとらえることができるのである。
それとは反対に、今の社会、職場、家庭の中、ネガティブなニュースや、人の批判や中傷、わるい噂や陰口、せわしなさ、疲れ、等々、様々なマイナスな要素に囲まれさらされていると、無意識にそれらから逃れるために自分のこと以外に意識が向かなくなり、自分を守るために、心を閉ざしてしまうような反応になる。その状態で目に映る自分の外側にある、人、物について深く理解することができなくなり、さらに悪い方向へ向かうと他者にたいして否定的、敵対的な見方をしてしまうようになる。そのような状態では、他者にたいして抱く「愛おしさ」「慈しみ」の感覚には程遠く、「無関心」もしくは「批判的」「攻撃的」な想いを持つことも不思議ではない。
ということから考えると、自分の周りの環境を整え、ネガティブなことや言動を発することがないようにするのはもちろんのこと、そのようなことからも距離をおいて、「やさしさ」を触発することがらに集中する生活を意識することが必要なのだろうか。
なにか違うように思う。自分の身に起こることは避けられないように思うし、周りの環境は自ら選んだり変えたりすることも難しいときもある。自分の内側、中心にある「慈愛」「やさしさ」を意識することができるようであれば、ネガティブな事柄や環境に揺さぶられることはなく、本質であるものを軸にして行動や表現することができるのではないか、それによりまわりの人を含めた環境の変化、起こることにポジティブな変化を与えることができるのかもしれないと思うのである。

自発的な行動として

「主体的な人にとって、愛は動詞である。愛は具体的な行動である。」「反応的な人は、愛を感情としかとらえない」「愛という気持ち、感情は、「愛する」という行動から得られるものである」

『完訳 7つの習慣 人格主義の回復: Powerful Lessons in Personal Change』(スティーブン・R・コヴィー, フランクリン・コヴィー・ジャパン 著)より

引用した一節は、自分の愛読書「7つの習慣」からの抜粋で、こころの内側にある「愛」を意識できる人は、主体的であり、まわりのものや人、環境の変化に翻弄されることはないという。
「慈愛」「やさしさ」を人間の本質、原則として考え、もともとある物を探し、それを見つけたら磨いていく。自発的に「愛」「やさしさ」を行動として表していくことで、自らをマインドフルネスな状態おくことができ、自分自身と関わる人のこころを満たすことができるのではないかと考える。

「やさしさ」「思いやり」について考えることは、「その1」に書いたとおりだが、自分の法人の基本理念は、「やさしさ」「思いやり」だけではなく、人のことを思う心を養うこと、さらには、善良な心を培う努力をすること、を求めるものとなっている。
福祉・介護の仕事をするものとして、技術やスキルだけをもとに支援を提供することではなく、自分の内面を見つめ、人の本質を考え、自分の行動に変化を起こす、そういう支援者でありたいと思っている。

マザー・テレサの言葉

最後に、このテーマを考えている時に、巡り合った、マザー・テレサが1984年に来日されたときの聖心女子大学の講堂で行われた講演での挨拶の中の言葉を以下にあげておきたい。

「日本では路上で行き倒れて死んでいく人、膿にまみれてハエにたかられている人はいません。しかし、日本を歩きながら大変なショックを受けました。街はきれいだし、とても賑わっているのに、その街を歩く人たちの顔に笑顔がないのです。皆さんの悲しそうな表情が心に焼きつけられました。

インドの貧しい人たちは体は病んで苦しんでいますが、日本人は心の中にぽっかり穴があいているのではないでしょうか。
貧しい人たちの体をケアする必要があるように、寂しい思いをしている日本の人たちには、ちょっとした言葉をかけてあげてください、温かい笑顔を見せてあげてください。
それは私がインドで貧しい人々にしているのと同じことなのです」

マザー・テレサの言葉



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