通信制大学になぜ京都芸術大学を選んだか
最初は写真撮影が上手になりたかっただけ
私は、もともと研究者になりたくで、40年以上前に、ある国立大学の理学部を卒業した。研究者になるためには、大学でアガリというわけにはいかず、大学院(マスターコース)に進学するわけだが、そこで指導教官から、「君は研究者には向かない」と言われ、ドクターコースに進まず研究者への道を諦め、専門知識を活かせる出版社に就職した。その出版社には、マスター出のライターがゴロゴロいたため、重宝されたのは最初だけ、筆の立つライターが優先され、専門性を活かせない部署に異動させられた。当時出版界はDTP移行ブームで、ちょっとシステム化の手伝いをしたばかりに、最終的には制作会社に出向となった。専門ライター復帰への退路が断たれた。やがて会社が早期希望退職募集を始めた。将来(ゴール)が見え始めていたこともあり手を挙げた。上の人間はまさか私が応募するとは思っていなかったようで、慰留されたが、もう退職は決めていた。その退職金を元手に2010年に制作会社を立ち上げる。当初、個人事業主の形態でスタートする予定だったが、法人にした方が、人が集まりやすいという助言を受け、最初から株式会社の形態でスタート。いい機会なので、ライター時代から思っていた写真を上手に撮れるようになりたいと、通信制の大学を物色し始める。
大阪か京都か迷った末、まず利便性で京都に
当時、通信制の芸術系大学は、武蔵野美術か大阪芸術か京都造形かの3つあった。写真のコースがあったのは大阪と京都、大阪芸大の写真学科は老舗で定評があったが、なぜか大阪芸大は選ばず、東京でも大半の講座を受講ができる京都造形を選んだ。
最初の1年は、東京だけで済んだが、東京の外苑校舎には、専用の現像施設やスタジオがなかったため、ちょっと高度な技術が必要な講座になると、京都の高原校舎でしか開かれないので、京都に行く機会が徐々に増えていく。最初の頃は京都駅前のビジネスホテルに泊まっていたが、観光地なのでハイシーズンになると宿泊代がかなり高くなるので、途中から料金の変動がない祇園の旅館を常宿にして、卒業まで凌いだ。5年目に女将が入院し、代理の若女将から朝食が出せないので、女将の入院期間は泊められないと言われたけど、朝食なしでも構わないとお願いして、卒業の6年目は5回は泊まらなくてはいけなかったので大変助かった。感謝感謝なのだが、その後、廃業されたようで、今はやっていない。
いずれにしても、祇園から京阪と叡電を使って、宿から高原校舎まで、寄り道せずに通っていた。
京都にハマった
京都は日本有数の観光地。それなのに、仕事(病院取材)以外には、過去に中3の時、「奈良・京都研究旅行」(中高一貫校だったため、実質、中学の卒業旅行)と大学院の時、学会参加のついでに京都に触れたことはなかった。なのに、流石に1年に何回も行くと、流石に街自体に魅了され、ハマってしまった。もっと京都を知りたい。そんな願望が強くなっていった。