「書くこと」は「書くこと」でしか鍛えられない

せっかくnote始めたので、少し駄文も書いてみたいと思いました。金曜夜でちょっと変なテンションになっているので許してほしい。


読書メーターを見返して思う

読書メーターを初めて今日で550冊目にたどり着きました。もうここまで読むと半分くらいの小説が頭からすっと抜けているので、ちょくちょく再読したいとなんとなく思っていました。どうやって再読本探そうかな~、と考えていたのですが、漫然と「これまで書いた感想が短かった本を読み返そう」と考えました。

読書メーター始めたての頃はだいたい80字くらいしか書いてませでした。それでも長い方で、宮部みゆき『火車』は50文字、森博嗣『すべてがFになる』が90文字、綾辻行人『十角館の殺人』が80文字程度しか感想書いてませんでした。

テンションにも左右されているようで、始めたてでも高野和明『ジェノサイド』乾くるみ『イニシエーション・ラブ』は200字くらい書いてます。覚えているのはこの2作を読み切ったときに自宅でラストシーンを読んだことくらいです。だれかに「これすごいよ!!」って話したい欲求がキーボードを叩く指に流れたんだと思います。

最近では、感想が書けないなんてことはほとんどなく、もう255文字じゃ書ききれない作品がちらほら出てきています(note始めたのもこれが理由ですし……)。多分、シンプルに感想を書き慣れてきているのだと思います。この書き慣れてきているという現象がミソで、タイトルに繋がります。


次の文章読めますか? 書けますか?

本書は<英国犯罪小説界の女王>の新境地となる傑作であると同時に、ミステリ史に立てられた確固たる里程標だ

これはミネット・ウォルターズ『遮断地区』の帯に書かれていた解説の川出正樹さんの文章です。

この文章読んで意味わかりますか?


私が最初目にしたときに思ったことは、「里程標……?」でした。

そもそもこれはなんて発音するんだ? どういう意味なんだ? と考え、おそらく「何らかの距離を示す目印のことで、この本はミステリ史という歴史にドンと立つ標識になる」と言いたいんだろう、と結論づけました。


里程標の意味は以下のとおりです。

りてい‐ひょう〔‐ヘウ〕【里程標】 の解説
距離を記して道路・線路のわきなどに立てた標識。転じて、物事の推移・発展の一過程を示すしるし。

まあ、大体合っています。なんでこのように考えることができたのかというと漢字文章で推測できたからです。

「里」と「程」と「標」です。「里」は一里=約4kmの長さの単位、「程」は工程や日程などの道筋、「標」はしらべで標識なので、意味は類推できます。


読むことと書くことの決定的な違い

じゃあ、結果なんなんだよ。ってなるのでそろそろ。

先程、分からない単語は類推できると言いました。読みは周辺から補うことが可能です。しかし、決して逆はできません。「里程標」という単語の存在を知らなかった私はどこかでこの言葉を知るまでは未来永劫「里程標」は書けなかったと思います。

文章を読むときには細部が分かっていなくても支障はないでしょう。80、90%ぐらいがわかるのなら大枠を掴むことは十分可能です。

しかし、書くことは違います。書き手はこれから書こうとする文章について100%分かっていなければ書けません。わずか一単語でも分からない、知らないならばそれは決して書けないのです。

「たくさん読んだからたくさん書ける」というのは間違いだと気づきました。そうじゃなかったら、一冊の本読んで255文字埋められないなんてことありえないからです。

感想を無理やり書くようにしたら最初は苦痛でした。しかし、どこかでふと欲求が出てきます。「なんかもっとうまく書く方法ないかな……」と思った状態で他の人の感想などを見ます。「お、この人上手いこと言うな! 俺も使ってみよ!」。ここで初めて書くことにつながる読むことを体感します。

自分で書いて、うまく行かない部分を見つけてからじゃないと、読んでも文章はうまくならないのです!


書いた感想

転職してプログラムコード以外を書く習慣がなくなってしまったので、こうやって文章書く習慣をつけたい。note書きやすくていいなあと思いました(フォント綺麗だし、余計なタグとか付ける手間省けるし)。

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