コロナ禍での留学〜留学準備編〜
どうも〜Takuyaです。noteの投稿も3回目となる今回は、留学準備編をお届けします。留学準備編の前半パートでは、進路を博士課程に決めるまでの事、海外大学院博士課程に応募する流れをお話しします。後半パートでは、大学院が決まってから渡航するまでの期間の留学準備についてお話しします。また、この投稿に書かれている内容は、一つの例に過ぎないことをご理解した上で、是非参考にしてください🙇♂️
〜海外大学院(国立台湾大学)に至るまで〜
研究のトークをするため国立台湾大学に訪問時
僕は、この9月から国立台湾大学博士課程に進むわけですが、なぜこのような進路を辿ってきたのか、その経緯を皆さんにお伝えし、みなさんの進路の幅や可能性を広げていただけたらと思っています。コロナ禍での海外渡航や海外大学院進学と聞いて、ハードルが高かったり不安を感じる人は多いかと思います。僕もそのうちの一人でしたので、ものすごく分かります。ですので、是非、僕の体験談を聞いて参考にしていただけたらと思います。
僕は、2016年から2018年にかけてフランスとドイツに留学していました。ダブルディグリー留学(日本と海外の学校、双方の学位が取得できるプログラム)と呼ばれている制度で、フランスの学校に2年間在籍した経験とドイツのマックスプランク宇宙物理学研究所で数ヶ月研究インターンシップ の経験があったので、海外大学院に進学する不安は、特にありませんでした。もちろんフランスに留学するときは上記のような不安に打ち当たりました。フランス、ドイツ留学の内容は、また別の機会にnoteに書かせて頂きます。今回は国立台湾大学進学に至った経緯を書かせて頂きます。
僕は学部時代は、機械工学系の学科に所属していました。というのも将来の夢が、大学に入る前は宇宙エレベーターの建設に携わることだったからです。大学を選ぶ段階で僕が意識したことは、工学をしっかり学べる場所、そして国際色の強さ、実家との距離を踏まえて一人暮らしができそうな大学でした。
大学1年の頃、大学の講義やテストを受けて思ったことが、面白いでした。でも同時に何か物足りなさも感じていました。高校の勉強まではなんで数学を勉強しているんだろうとかって皆さんも一度は思ったことがあると思いますが、僕もそのうちの一人でした。でも、大学の講義を受けて、数学がとてつもなくすごい手段であることに気がつき、数学を勉強することが好きになりました。大学の学部の頃は数学と物理を独学でも勉強していました。大学の講義がどんどん物足りなく感じると同時に、自分の夢である宇宙エレベーターの建設に携わるにはまだまだ程遠いなと感じました。また、その時に宇宙をやっていくなら世界に出なければならないということを思い始めました。そこで、大学のプログラムであるダブルディグリー留学を考え始めました。そして、実際に学部3年の秋からフランスに渡りました。(フランス留学編は別のnoteに書きます)。
フランスの理工系グランゼコールにダブルディグリー留学時
フランスの学校はジェネラリスト育成をすることを理念においており、座学だけではなく、インターンシップ などの経験を積むことも重視していました。インターンシップは全て自分でアプライしなければなりません。2年目のインターンシップをどこにするか悩んでいました。自分の行きたいところはいくつかありました。この時、自分の悩みの一つは、このまま宇宙開発の道に進むのかどうかというところにありました。自分が宇宙を好きになったのは小学生から中学生にかけて読んだ宇宙物理学者スティーブン・ホーキングさんの児童向けの本でした。その本を読み、宇宙がとても好きになりました。そもそも、宇宙の謎にときめき、宇宙が好きになったということもあり、その謎をいつか解明したいという気持ちがありました。そのような後悔がないようにと自分が考えたインターンシップ先がマックス・プランク宇宙物理学研究所でした。学術研究機関としては、とても有名な場所です。そんな、ところに、機械工学専門の自分が行けるとは微塵にも思っていませんでした。でもやらないより、やる後悔というところで、研究所の所長に直接メールを送り、その旨をお話ししました。その方は快く受け入れてくださりました。
ドイツのマックスプランク宇宙物理学研究所での研究インターン時
僕の卒論はフランスでのプロジェクトであったので初めてガッツリした研究を素晴らしい指導者の元、マックス・プランクで送れたことは、今考えると凄かったなって思います。この挑戦が今につながっています。宇宙物理の知識はほとんど無いに等しかったので、研究しながら勉強もしたり、プログラムを組んだりと、がんばりました。その結果、なんとか形になる結果をインターンシップ期間に出すことができました。それを元に、日本に帰国後は修論とは関係ないですが、論文を書き、シンポジウムにも出ました。一方で、この研究生活の中で大きかったのが、コネクションでした。いろんな人にお会いすることができました。そのうちの一人が、台湾でお世話になる指導教官でした。その時は、台湾大学に進学するようなお話はしませんでしたが、帰国後のシンポジウムで再びお会いする機会があり、その際に少しお話ししました。その時僕はまだ、進路に迷っていました。就活もしていました。自分が将来、本当にしたいことはなんだと、何度も自問自答しました。シンポジウムは数日間あり、その間に答えを出そうと考えていました。やっぱり自分は宇宙物理の研究をしていきたいと考えました。その時から、宇宙物理の研究をできる場所を調べ始めました。その中で、台湾の指導教官にも誘って頂きました。その時から台湾への進学も考え始めました。日本、海外の大学院をいくつか受けました。海外大学院はいろんな所を調べ、気になったところには、メールを送っていました。いくつか送った中で、返事が返ってこなかったところもありますが、いくつか返ってきました。返ってきた所に出願しました。合否の結果を踏まえ、研究内容と指導教官と環境を考え最終的に国立台湾大学を選びました。
そして、国立台湾大学に行くことが決まり、機械工学の修士も無事に修了することが出来ました。修士の間は、マックス・プランクでの宇宙物理の研究を行いながらも、機械工学の修士の研究も並行してあったのでかなり大変でしたが、いろんな経験を積むことが出来ました。結果的に小学生から中学生にかけて夢であった宇宙物理学者を目指しているのは、なんか感慨深いです。
宇宙物理学に出会った小学6年生時
〜海外渡航に至るまで〜
コロナ禍での海外渡航をしましたが、その中でいくつかやはり、壁がありました。そもそも、台湾に入国許可が出たのが、7月22日でした。それまで、Missionsに電話しても、就学目的での渡航許可がいつ降りるかわかりませんという反応でした。海外渡航がいつになるかわからない不安を6月ごろから抱えていました。ただ、いつ許可が降りてもいいように、VISAを取得するために必要な準備物は用意していました。でも、ある時Missionsに電話した時に、これまでのような準備物とは限らないので、準備はもう少し待った方がいいですと言われました。確かに、お金がかかりますので、その方が安泰でしょう。しかし、物によっては1週間あるいは2週間かかるものがあります。そして、大学側からは、入国許可が降りないままこの期間に台湾に到着してくれと言われ、残りの期間に追い詰められました。つまり、許可が降りた瞬間にVISAを申請できるようにしておかなければなりません。お金はかかっても仕方がないと思い、これまでの必要書類と同様の準備をしました。そして、日本人学生のVISA取得許可が降りたのですが、実は、台湾教育省からの学生リストがMissionsで確認できないとVISAが申請できないと言われました。結局、学生リストが送られてきたのが大学へVISA番号やフライトのスケジュールを提出しなければならない日の4日〜5日前くらいでした。調査が提出できなければ、2週間フライトを遅らせてくれと言われていましたが、2週間後であれば、2週間の隔離期間を考えれば、大学への登録するために大学へ行く日と被ってしまいますし、授業はすでに始まっています。おそらく措置はしてくれるとは思いますが、いろいろと面倒臭そうです。そういうことを踏まえると、さっさと調査を提出して、初めに提示された日に到着する必要がありました。VISAは住民票のある関西で取らなければならなかったので、すぐに関西に帰り、VISAを申請しました。そして、その後は飛行機をとり、なんとかギリギリ調査を提出しました。ちなみに調査は大学が台湾教育省に入国許可を出してもらうための調査です。その後は、大学側が提携している旅行会社が用意してくれた検疫期間のホテルのことに関するやりとりや、9月から住む寮に関するやりとりをしました。そして、フライト三日前に正式に入国許可がおり、入国許可証をもらいました。これがないと入国ができません。VISAがあることが入国できることを意味しているわけではないということです。ここが、一番、コロナ禍では特別なのかなと感じました。とても大変でしたが、なんとか台湾に到着し、検疫ホテルで生活中です。
現在は、隔離生活も終盤を迎え、11日目となりました。残り今日を含め4日間です。14日間も外に出なかったのは人生初めてかなと思いますが、心身共に健康です。毎日しっかり筋トレしています。
それでは、今回の投稿はかなり長くなりましたが、ここで終了します。読んでいただいた方、ありがとうございました〜少しでも参考になればと思います。どこかのタイミングでフランス、ドイツ留学編をお届けします〜
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