自己紹介(経歴や出身、現在の仕事について)
こんにちは!
株式会社Dynamic Center Core(ダイナミックセンターコア)
代表取締役 牧野肇(まきの はじめ)といいます。
現在は両国を中心に、子育て支援を通して日本の未来を創る仕事をしています。
出身地について
埼玉県行田市出身です。
忍城や、ゼリーフライ、フライが有名な地元。
「のぼうの城」という映画で取り上げられた場所です。
人に説明する時には、行田市と言っても伝わりにくいので、熊谷の隣の市というと「ああ〜〜あの暑いところで有名な・・・」となります。
実際に夏は暑く、冬は寒いという盆地だったので、田舎という言葉がピッタリの場所になります。
学生時代
小学生からサッカーを始めました。
地元の小学校にサッカーチームができたのが小学校5年生の時。
周りの小学校やクラブチームは小学校1年生からスタートしているところもあり、ほとんど勝てる試合がなく、負けてばかりでした。
そんな中、小学校6年生の時の地元の小さな大会でしたが、3位に入賞する経験をし「どれだけ弱小チームだったとしても力を合わせれば試合に勝つことが出来るんだ」という経験をし、感動したのを今でも覚えています。
趣味はエレキギターを中学校3年生の時からやっています。
GLAYやLUNA SEAなどのロックバンドが好きです。コピーはROCKを中心にいろんな年代をコピーしていました。
高校の時には、ライブハウスにてライブを行ったり、オリジナルの曲を作ってライブをしたり、人生はロックンロールというのを体験していた時期でもあります。
人生の転機1(両親の離婚)
私の人生の転機となる出来事が中学校2年生で起こります。
1つ目は両親が離婚することになり、私は母子家庭になりました。
子供の頃から父親と旅行に行った経験もほどんどなく、父親はほとんど家に帰ってきていない状態で、家の固定電話はカード会社などの督促電話が毎日のように鳴り止まない家でした。
日によっては深夜に父親を訪ねて、いろんな方々が家に督促に来ていました。
小さな頃から貧しい経験をし、住んでいたアパートは雇用促進住宅という家賃1万円くらいの家。今考えても、すごい場所に住んでいたな〜と思います。
人生の転機2(恩師との別れ)
中学校でもう一つの転機と言える出来事が起こり、小学校の頃から、サッカーを教えてくれていた監督が急に脳梗塞で亡くなる経験をしました。
先週まで一緒にサッカーをしていた人が、急に亡くなる経験。。。
また、自分の父親代わりと言っても良いくらいの存在。
サッカー少年団の子供達を自宅に招いてバーベキューを開いてくれたり、キャンプを企画して連れて行ってくれたり。本当に尊敬できる人でした。
「全力前進」
サッカー少年団の卒団式で監督にもらったメッセージです。
何事にも全力で取り組み、前進しなさいという言葉は、今の自分にいつも問いかけてくる言葉です。
今では、自分の座右の名としても、使わせてもらっています。
何か人生で迷うことや、判断に困った時には、全力で前に進むことだけを信念として行動しています。
前に進んでいれば、物事が解決されることがほとんど。
前進し続ける人生を今後も生きていこうと思います。
大学時代
私は東京電機大学を卒業しています。
自分で学費を稼ぎながら通う必要があったため、夜間の大学に通いました。
昼間はアルバイトをしながら、夜は勉強。。。
これを4年間継続し、学費も全額自分で支払いしながら卒業することができました。
大学時代のアルバイトでは、居酒屋チェーンのキッチンでお世話になりました。掛け持ちのバイトではカフェにて働いていたこともあります。
キッチンをやっていたこともあり、最初は皿洗いから始まり、卒業する時には、焼き鳥、揚げ物、ドリンクなど色々できるようになっていました。
卒業間近では、賄いを作ったり、おでんや味噌汁などの味付けを任せてもらうこともあり、最終的にうちで就職したら?と言われるくらい、ほとんどできるようになっていました。アルバイト代も上げてもらったり、本当に学生時代にお世話になったことは感謝しかありません。
奥さんとの出会い
私の奥さんとの出会いは、この居酒屋で働いていた時になります。
アルバイトのヘルプで、私が働いていたお店にランチのお手伝いに来たことがきっかけで出会いました。
ランチの忙しい時に、洗い場近くでオボンを盛大にこぼし、僕が片付けたり、拭いたりしたのが一番最初の思い出です。
20歳の時に出会って付き合い出したので、今では親よりも一緒にいる時間が長くなっています。
就職先
大学卒業後は、自動車部品メーカーにて、研究開発の仕事をしていました。
夜間の大学を出て、研究開発の仕事をさせてもらえることは、かなり珍しい経歴だったみたいで、大学卒業後も、大学の入学案内に卒業生代表として毎年、入学案内に載せるための取材を受けていました。
私が担当していたのはハイブリット自動車に載せる、自動車空調とエネルギー回生システムの開発で、特許を出したり、実験をしたり。
本当にやりがいのある仕事を任せてもらえていました。
会社の研究所でも、半分趣味のように仕事をさせてもらえる環境だったので、これは天職だな〜と思いながら、毎日を過ごせていました。
人生の転機3(リーマンショック)
順風満帆に仕事をしていたのですが、入社3年目にリーマンショックが起こりました。
製造メーカーでもあり、自動車系の企業だったので大打撃。
手取りが前年度までは月収30万円近くあったのに、リーマンショックの影響によって、月収13〜15万円に。。。さらにボーナスカット、残業ゼロ。
会社が潰れるかどうかの瀬戸際になり、一部上場の企業でも、経済危機によって潰れる可能性があることを身をもって体感しました。
この時に、会社の方針として、労働組合から、会社で給料を払うのは厳しい状態なので副業を解禁するという発表があり、当時は副業なんてするのは御法度だとされるような風潮が崩れていく瞬間を体験しました。
会社の先輩で、家庭を持っている方などは、会社の仕事が終わった後に、コンビニでアルバイトをしたり、スーパーでレジや品出しをしている姿を見て、自分もいずれはこうなるのかな・・・と将来への不安が増したのを今でも覚えています。
そんな中、国家資格を取ってみたり、転生活動をしてみたり、色々もがいている中で、当時の彼女(現在の奥さん)の知り合いの経営者の方を紹介してもらったことで私の人生は激変しました。
現在の仕事
その経営者の方にお会いした時に、仕事終わった後の時間や、土日の時間を使って経営者の勉強をしながら、事業を立ち上げたら良い。
と提案をいただき、自分の中で、経営者になるなんて選択肢が全くなかった中での提案だったので、正直、戸惑いもありながら、自分に本当にできるのか?と不安に駆られたのを今でも覚えています。
そんな迷いが生じている中で、ビジネスの基礎基本が学べるセミナーを開いているから勉強しながら、最初は業務委託とかで稼ぎながら起業の準備をしたら良いかもね。と提案をいただき。
それならば自分にも出来るかもしれない!と思い、セミナーに参加するところからスタートしました。
実際に学びながらスタートして2年で、年収1000万円を超え、脱サラし、結婚もこのタイミングで同時に行いました。
独立して稼げるようになった時に、今回の人生で自分は何を成し遂げていこうかを考え、自分が子供の時に色々体験できなかったことや、家族との想い出を作れるような仕事をしたい。と思うようになりました。
子育て支援
「子育て支援を通して日本の未来を創造する」
というのが、私の会社のミッションになります。
子供達の未来を創るような仕事がしたい、ママやパパの幸せが子供に伝わっていくというのを自分が体験しているからこそ、幸せな家庭が世の中に増えていくことに対して行動を起こしていきたい。
という思いから、すべての事業のコアバリューにおいています。
現在やっている事業として一番の中心にあるのが小売業になります。
「Angel Patronage(エンジェルパトロナージュ)」
ママパパが、子どもと笑顔溢れるしあわせな時間を1秒でも多く過ごせるお手伝いをしたい。
そんな想いで作られた
「Angel Patronage (エンジェル パトロナージュ)」は
「ヒーリング(癒し)」
「バイタリティ(活力)」
「ジョイ(喜び)」
をキーワードに、
エシカルかつサスティナブルな、原料や生産地へのこだわったアイテムを取り揃えています。
他にも大人も子供も楽しめるキッチンカーや、子供向けワークショップの開催を行ったり、多事業展開も行っています。
今後の展望
子供向けの事業を続けていく中で、
ベビーカフェ(Angel Patronage Cafe【仮】)
子供と一緒に通えるカフェを作ることも計画をしています。
小さな子供がいることで、入店拒否されるお店や、子供が来ることを嫌うお店があることを私自身も経験し、子供と気軽に通えながら、ママやパパが一時的に子育てから解放されて癒されるようなカフェを作りたいです。
「ママパパの幸せが、子供の幸せに繋がっていく・・・」
世の中に、幸せな家庭が増えていくことを全力前進で実現させていくために、今日も私は世の中に貢献し続けていきます。
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