【キベラスラム】  スタディツアーに参加して学んだこと アフリカの歴史編

はじめに


 2022年2月2,3日にキベラスラムというケニアで一番大きいスラムのスタディツアーに参加しました。ツアーではキベラスラムの中を歩き、様々な光景や様々な人の表情や感情に触れることが出来ました。そこで、感じたことや学んだことはとても多く、大きなものでした。だから、noteに書き起こすことで学んだことや自分の感情を整理しつつ、自分が知ってほしいと思ったアフリカの事やケニアの事を少し発信してみようと思います。

 今回スタディツアーを主催して下さった方は早川千晶さんという方です。早川さんはケニアに30年以上住まれている方で、マゴソスクールというキベラスラムにある学校の運営に携わっています。マゴソスクールは、様々な理由で教育を受けることが厳しい子どもたちが教育を受けられるように、スラムの駆け込み寺になるように、との想いから設立された学校です。
 その運営資金については、様々な方からの援助もあり成り立っているようです。
 日本にマゴソスクールを支える会という団体があり、そこに入会すると直接マゴソスクールを支援することが出来るみたいです。

参考HP http://magoso.jp/

上のリンクからHPに飛べるので、是非チェックしてみてください。

今回のnoteでは、実際にキベラスラムを訪れて感じたことではなく、その前日に早川さんからレクチャーして頂いた「アフリカの歴史
そして「ケニア共和国」設立の流れについてをまとめ、所感を述べさせて頂こうと思います。

アフリカ大陸(民族)の歴史

▲アフリカ人の源流

アフリカはまさに多様性の大陸と呼ぶのにふさわしい大陸です。

その理由として、アフリカ全土で2,000の民族が存在して
いることが挙げられます。因みにケニアは42民族です。

そして、そんな他民族なアフリカ大陸には生来、大きく分けて3種類の民族源流があります。

1つ目はCushitic というソマリア周辺が発祥と言われている血統。
2つ目はNiloticというナイル川に沿って移動生活をしていた血統。(牧畜が得意)
3つ目はBantuという西アフリカを中心に生きていた血統。(農耕が得意)

この3つの血統に共通していることは、いずれも移動民族だった、ということです。

彼らは、よりよい生活環境を求め常に移動と定住を繰り返していた民族でした。そこには当然、国境という概念はありません。つまり、現代では55か国という区分をされているが、歴史的に見ればアフリカ大陸は1つの大きなコミュニティであり、全員が上の3つの血統から来ているようです。

その為、国籍なんてちっぽけなアイデンティティ以前に

生来彼らは国を超え、DNAに刻み込まれた繋がりがあるのです。


▲アフリカから学ぶべき精神性


レクチャーから学んだアフリカの特筆すべき精神性は2つあります。

① 自然には絶対服従の精神

 昔から、移動を繰り返していたという事実からも推測できるかもしれませんが、アフリカに住む人々は、自然を自らの都合に合わせて征服する、という発想を持っていません。

 むしろ、自然環境に合わせて、自らが適応していくという姿勢が強いです。アフリカ人にとって自然とは、神様によって作られ、動植物、そして人間に平等に享受されたものなのです。

 だから、自然環境には否応なしに感謝出来るし、自然は傷つけてはいけないものだという認識がしっかりしています。

 マサイ族には「水」は全生物で共有する資源、という認識があります。これは、自然は人間の所有物ではない、ということをよく表した価値観だと思いませんか。

② 絶対的助け合いの精神

 古来のアフリカでは、飢えるときは共に飢え、栄えるときは共に栄えようという価値観が根差していました。つまり、常に皆平等に助け合って生きていたのです。

 では、なぜそのような価値観が生まれるのか。

 アフリカには大地溝帯という大地の切れ目のような土地が存在するのを御存じでしょうか。そこは人類発祥の地と言われています。

 人類発祥の地に生を授かり、暮らしを営むアフリカの人びとに誰かを蹴落とそう、自分だけが得をしよう、という狡猾な発想は生まれなかったのです。

 助け合いを基調とするアフリカ人にとって大切な価値観は調和でした。

 人間皆同じ、だから争いはしない。常に苦楽を共有し、誰とでも一緒に生きていこうとしていました。それは、後にアフリカを絶望の淵に追い込んだ西洋の旅人に対しても同じでした。


アフリカ植民地時代の歴史


▲豊か過ぎたアフリカ


 大航海時代に差し掛かる頃、ヨーロッパでは、狭い国土の中で幾度となく戦争が起き、奪い合いが激化していました。

 当時、世界の中心(と勘違いしていただけだが)だったヨーロッパ諸国は国力の更なる強化、そして他国をリードすることを目的にアフリカ大陸へ踏み出しました。

 ただ、ヨーロッパ人はアフリカ進出する上で重大な勘違いを犯していました。

 それは、アフリカは可能性が無限大の無人の大地だと認識したことです。
 
この認識は結果的に、原住民には目もくれない大略奪の為の支配という悲惨な歴史を引き起こす事になります。

 アフリカ人は当初、人間皆同じの精神でヨーロッパ人を歓迎していました。しかし、その優しさが仇となりいつの間にか、全てを奪われてしまったのです。

 約2,000万人ものアフリカ人が奴隷として世界各地に連れて行かれました。もちろん2,000万人以外にも、奴隷商売の過程で亡くなったアフリカ人は大勢います。

 では、なぜアフリカ大陸がヨーロッパ人に狙われたのか。

 ここで、1つ言えることはアフリカは豊か過ぎたということです。

 アフリカは、人材も土地も天然資源も全て、ヨーロッパ人からしたら規格外な程に充実していました。そして気候も非常に安定していました。

 その為、ヨーロッパとは比較にならない規模で農業を行える。
 いわば、アフリカは1次産業の聖地だった。
 
 ヨーロッパ人からすれば、こんなにも恵まれた大地に、文明の遅れた人びとが住んでいることは衝撃的だったのでしょう。そして、そんなお誂え向きな土地を支配しようという発想に至ることはある意味容易に想像できてしまうのではないでしょうか。


▲無慈悲な国境線


 そして、1884年に行われたベルリン会議にて、ヨーロッパ諸国内でアフリカ大陸の土地分割が行われました。

 この会議で、アフリカ諸国の植民地支配が正式に承認され、ヨーロッパ諸国の所有領土を明確にする為にアフリカ大陸に国境線が引かれたました。無論、この決定にアフリカ人が介入する余地はありませんでした。

 アフリカ人の都合など一切無視して、ヨーロッパ人の私欲と独断によりひかれた国境線こそ、現代に続くアフリカ大陸55か国の始まりなのです。

 アフリカ人は元来移動民族であったことを考えると、同じ部族なのに国境という隔たりに分断されてしまったり、違う部族が同じ国境内に閉じ込められてしまうという不都合が起きてしまったことは想像に容易いでしょう。
 そして、このような同じ国境内における部族の違い、価値観の違いが後に多くの悲惨を生むことになるのはご存じの通りです。


▲文化略奪


 土地を支配したヨーロッパ人が次に行ったことは、キリスト教布教によるアフリカのローカルの文化やコミュニティの結束の破壊でした。

 アフリカにおける宗教、とりわけ呪術と呼ばれるものの存在意義は非常に大きかったのです。呪術とは、強烈な霊感だったり、人知を超えた感性により、人が見えないものが見える人が持つ特殊な力のことです。呪術の力を持つ人は呪術師と呼ばれ、コミュニティの中心的存在でした。従って、呪術師はコミュニティの調和を保ち、平和を維持する上で非常に重要な役割を担っていました。

 ヨーロッパ人はそんな呪術師を迫害し、呪術のシンボルにして心の拠り所だった神木を切り倒していった。

 こうして、土地と宗教の支配に成功したヨーロッパ人のアフリカ支配は急速に進んでいきます。ここからはイギリスによるケニア支配の話になるので、ヨーロッパ人をイギリス人、アフリカ人をケニア人と表記して話を進めていきます。

▲周到な支配手順


イギリスは、ベルリン会議で植民地支配が正当化された後、周到なやり口の下、ケニアを徹底的に支配していきます。

イギリスのケニア支配における手順は以下の通りです。(19世紀後半~20世紀前半の話)

①気候が安定し、豊かな土地(国土の10%程度に当たる)を全て収奪する。
 ▶後にその土地はWhite Highlandsと呼ばれます。

 現地人をその豊かな土地から排斥し、狭くて劣悪な土地に追いやりました。土地を失ったケニア人の多くは失業に追い込まれます。
 ▶何故なら、当時のケニア人のほとんどは、自分の土地を使った農業で生計を立てていた為です。

②ケニア人に納税を強制させる。
 ▶職を失ったにも関わらず、納税を強いられたケニア人は、イギリス人が  
経営する巨大農園での労働を余儀なくされます。

※もちろん労働環境は劣悪でした(低賃金、重労働、無保険など)

ここで、イギリス人による、労働力を搾取する狙いは完全にハマったと言えます。

Kipandeシステムという戸籍登録により、ケニア人は徹底的管理されます。具体的にどのようなことを管理されたのかは以下の通りです。

  • 土地の自由移動不可

  • 転職不可

  • 納税の有無

自由が徹底的に奪われる形となりました。
こうして、ケニアはあっという間にイギリスの手に落ちてしまったのです。

たったこれだけで?と思ってしまいますが、生計を立てる手段を奪われ、行動は徹底的にイギリスの管理下に置かれる。このような状況では為す術はありません。

しかしながら、ここにはイギリスとケニアの間に大きな格差はあっても、ケニア人の間に大きな格差は存在していません。

では、いつからケニア人の間で格差が深まっていったのか。

ここもやはりイギリス支配の影響が甚大でした。


▲ケニア人の間で格差が生まれる

1900年代に入り、イギリスは着実に植民地支配をケニア全土に広めていっていきました。

 現在の首都ナイロビは、イギリスによる植民地支配の拠点として開発がすすめられた地域なのです。

 つまり、イギリスがケニアにくる以前、ナイロビはまっさらな更地だったというのです。

この都市開発の流れで今回訪問させて頂いたキベラスラムは生まれました。
(そのことについては後日記述させて頂きます)

そして、植民地政府はナイロビに植民地支配における中央政府を配置しました。

その後、全国各地区に地方政府を配置し、植民地支配の影響力を隅々まで及ぼせる体制をとりました。

支配を全国に広めていく際、各地方や、各農園からの税金を回収する上で、役人の数が足りないと気づいたイギリス人は、各コミュニティからケニア人を数人ピックアップし、税金の回収係になるように教育を施しました。

回収係に任命されたケニア人は読み書きを学び、ファイナンスを学び、同じケニア人に対し、指示を与えたり命令をする権利を得ました。

ここで初めて、ケニア人の間で上に立つ者、下につく者という構図が生まれたのです。

▲第一、二次世界大戦中の植民地支配


イギリスは2度の世界大戦でケニア人を兵士として戦場に駆り出しました。
多くのケニア人が戦争に参加したことは、独立に対する機運を高めるきっかけになります。

大きな理由は2つだと考えます。

1つ目に、戦争を耐え忍んだにもかかわらず、戦争の恩恵を受けたのはイギリス人だけという不公平さに憤ったこと。

2つ目に、戦争に参加したケニア人が、外の世界と触れることで様々なインスピレーションを受けたこと。
Ex, イギリス人の強みや弱みの理解、植民地支配から独立を果たした他国の事例など。

不満が募り、独立という概念を覚えたケニア人は抵抗運動を始めます。


▲マウマウの戦い(1952-1960)



 抵抗運動の頂点にして最大の戦いがマウマウの戦いです。

 マウマウの戦いはケニアで最大数を誇るキクユ族イギリスとの間で起こった抵抗運動です。

 キクユ族は、植民地支配によって最も大きな被害を受けた民族でした。

 その理由は、元々快適な土地に暮らしていた為に土地の収奪被害が甚大だったことが上げられます。

 前述したように、快適な土地はイギリス人によりすべて没収されてしまいました。住処を無くしたキクユ族は、結果的に3/4の割合で収容所送りにされてしまいました。

 植民地、収容所で想像できることは限られていると思います。当然の如く、キクユ族は収容所で想像を絶する苦難と闘うことになりました。

 また、イギリスは一部のキクユ族を政府の犬としてこき使う前提で十分な教育を受けさせました。しかし、結果的には教育を受けたキクユ族のとりわけ優秀だったメンバーは、抵抗、独立を学び中心メンバーとしてマウマウの戦いを引き起こすことになるのです。

マウマウの戦いは壮絶を極め、1万人以上の死者を出したとも言われています。
その壮絶さゆえに、これ以上植民地として支配し続けるのは厳しいと感じたイギリスは支配を諦めることにしました。

そして、1963年12月12日にケニアは正式に独立を果たしたのです。


▲ポスト植民地時代


 イギリスからの独立後、マウマウの戦いで中心的役割を担った人が中心となり、ケニア共和国としての政治が始まります。初代大統領のジョモケニヤッタはキクユ族出身です。

 しかし、政治制度や教育制度など、国の根幹となる制度は悉くイギリス植民地時代に出来たものの名残でした。

 そして、権力を握った者は一様に私利私欲と保身に走り、国内の経済的、精神的な溝を深めていきます。

 ここで本当に疑問に思うことは、人は何故、力を手に入れるとそれを自分の為に使ってしまうのか、ということです。どうして自分の懐は豊かなのに、心は貧しくなる一方なのか。この葛藤は、キベラスラムを訪れたとき、増々大きくなっていきました。(それについては後日お話させて頂きます)

話を戻しますが、ケニアの政治は腐りきっているようです。

汚職、横領、富裕層至上主義で貧困層はほったらかし。このような政治では、貧しい人程、絶望感に苛まれているのは想像に容易いのではないでしょうか。

しかし、ケニアの人々は自らの行動で様々な権利を獲得してきています。

1992年には、複数政党制を実現。

1996年には、大統領選挙の開催にこぎつけました。

何れも国民による抗議運動の結果で生まれた機会でした。

そして、来年から教育課程も一新されるようです。

遂にケニアの教育が真の独立を果たした、と表現する人もいます。

まとめ


アフリカ大陸は元来、1つのコミュニティでした。

そしてそのコミュニティに属した人びとは自然に対する畏敬の念全人類に対する尊敬と寛容、という現代に最も必要とされる精神性を保有していました。

これらの精神性をベースに平和なコミュニティだったアフリカを破壊し、アフリカに格差を持ち込んだのはヨーロッパ人でした。

大きな影響を与えたのは、国境階級という概念であると考えています。

ヨーロッパ人がアフリカ大陸を直接的に支配をした期間は歴史的に見ればそれほど長くないのかもしれません。

しかし、植民地時代の名残は今もなお、目に見える要素、目に見えない要素両面からアフリカを苦しめていることは間違いありません。

そして、最も苦しい思いをしているのは決まって、最も貧しくも愚直に生きている人びとなのです。そして、そのような無実の罪で1番苦しい思いをしている人たちこそキベラスラムで出会った人たちだと思います。

ただ、そんな現状でも宿命を受け入れ、日々大切な人の為に生き抜いているキベラの人たちは誰よりもかっこよかったです。(後日詳しく書きます)

そして、政治が腐りきり、日々絶望と戦いながらも前を向き、誰かの為に自分たちの権利の為に戦い続けるケニア人は尊敬の一言に尽きます。

アフリカの苦しみはアフリカによって生み出されたものではなく、外部の力によって生まれてしまった歪である。そのことを心に留めて入れば、アフリカに対する見方が変わってくるのではないでしょうか。見方を変えることで、アフリカに対する「何か可哀そう」という感情にも変化が生まれるのではないでしょうか。

このnoteを読んでそんなことを考えてくれたら、めっちゃ嬉しいです。

次は、実際にキベラスラムを訪ねて感じたこと、考えたことを自分の感情ベースに述べさせて頂きたいと思います。

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