長い休みの果てから
堕落ですよこんなの、堕落。
量子力学の単位も捨てたし、毎月更新を目標にしてたnoteも2か月更新できていないし、夏休み中にやろうとしていた読書も勉強もすぐ飽きて結局続かなかったし。
そもそもなぜ夏休みに経済学などをやろうとしたのか。確かに工学の応用が効く興味はある分野だ。ただ、自主的な勉強はモチベーションを自分で持続させられるかがカギで、それを裏で支えるのが「将来何になりたいか」という未来像なのだろう。それがないまま「面白そう」で取り掛かってもすぐ飽きる。少なくとも僕はそういうのは飽きやすい人間だ。だから未来像を見据えないといけなかったのだと思う。
そうはいえ、量子力学の単位を捨てたのは僕の決断で、それ自体はあまり間違っていたとは思わない。
期末試験の勉強は、不安とともにあった。昔から勤勉であること、勉強に真剣に取り組むことは望ましいことで、手を抜くと一気に堕落すると教わってきた。大学受験の塾なんかは煽り放題だ。今の頑張りが差になる、良い成績が取れたからといって慢心するな、受験直前に頑張れないような奴が将来何か成し遂げられるはずもない。そうやって、勤勉という理想に誘導されてきた。僕は従順で、実際昔から「ちゃんと勉強したから良い成績を取れた」という経験ばかりだった。手を抜いた方が良いだろうと思う場面もあったが、どれほど手を抜いていいか分からない。不安ゆえの完璧主義である。大学生になっても状況は変わらなかった。手を抜いたら最後、成績がどんどん下がり、周りから置いていかれて、一気に堕落した大学生へと突っ走ることになるかもしれない。だから、勉強を続けようとした。
それに加え、なるべく良い成績を取りたいと思うと、試験勉強はあるところで「終わらせる」ものではなく、試験までの間にいかに長い時間その内容に身を浸して慣れるかという勝負になる。試験勉強はこれくらいやれば十分だろう、と割り切ることができなくて、使えるだけの時間を勉強に充てようとする。勉強している体でいれば、不安は安らぐのだった。勉強さえしていれば、自分が何か重大な困難に立ち向かっているような気分になれた。
そうはいってもやる気が起きない時は起きない。だから、ソファーでだらだらと寝そべりながら、ノートパソコンの画面の講義資料に目を通す、勉強をしているのかしていないのか分からない状態が生まれる。勉強効率を考えると、机に向かって集中した方が良いのかもしれないが、でも散らかった机の上を片付けるのが面倒だった。没頭しているという体にしておかないと不安だった。
期末前の勉強というのは、そういう一種の膠着状態なのだ。
そんな状態で量子力学にも取り組んでいた。しかし最初から全然分からなかった。でも、今まで一度も履修した科目の単位が取得できなかったことはない。だから、何とかしがみつこうとした。そうしないと、落単がないという名目を失うことになって、勿体ない。ずっと後悔するかもしれない。不安だ。だから取り組むしかないなぁ。
はい、量子力学前日ですが、まち歩きに来ちゃいました。量子力学切断確定です!
人生は自由だ。大学生は自由だ。だいたい僕だってあんな膠着状態が無駄なのは分かっている。もう全然分からないのだから、小手先の試験対策で問題が解けたとしても何も本質的ではない。一応量子力学以外にも、2日後に代数学や複素解析が迫っていたが、全体的に理解は十分で、あとは本番の調子次第だ。不安に駆られて勉強を継続する必要なんてなかったのだ。清冽な水の流れに心を洗われ、堂々とした気分になった。
僕の中の理想論者がうるさく訴えかける。これまで単位不取得は一度もなかったのに量子力学を捨てるのかと。代数学の勉強を中断するのも、結局お前が怠けたいだけだと。そうだ、僕は怠惰で、試験前なのに言い訳して趣味の街歩きを敢行している。それで何が悪い!
こうして、変なこだわりを捨てても自由に生きていけることを感じた。量子力学の単位を捨てたのは、充実した日々を送るための一歩だと思った。
虚しさの原因は、もっと根本にあったのだと思う。それこそが、最初に嘆いた未来像のなさだ。だから、旅行や花火大会、アルバイト先のイベントなどで夏休みは鮮やかに彩られていたのに、自分のやりたい勉強をする意欲が生まれなかったことを気にしてしまう。
8月も中盤に差し掛かったある日、成績が発表された。代数学は5段階評価の最高評価。量子力学は試験を欠席したので未受験(単位不取得)となり、複素解析も微妙な結果だったが、それ以外は全体的にいつになく高評価が多い成績表となった。認められた気がした。自慢したくなった。代数学なんかは周りが苦戦していただけに正直なところ気分が良い。見たか、直前にまち歩きをしても良い成績を勝ち取れるんだぞ!
しかし、成績が良かったら何なのだ。探せばもっと成績が良い人だってたくさんいるし、そもそもそんな成績なんて一つの評価軸にとらわれない活動に励む人だっている。好きな分野の勉強、社会への貢献、資格、就活…… 今度どのような人生を送るかは同じ授業を受ける同級生の間でも様々で、努力の方向性だって一つではないはずだ。では僕はどこに向かって頑張っているのだろうか。
どこに向かって頑張っているのか。そう、これがよく分かっていないのが勉強していないといけないという不安の根本であり、さらに良い成績で威張るのを虚しく思う感情のもとなのだと思う。将来への見通しがないと、目先の好成績が目的と化す。だから、試験前に勉強をしていないと不安だし、試験後は成績が良くてもどこか虚しい気持ちになる。
中高までは「成績が良い」というのは、なんだかんだ全生徒に課せられた統一的な指標として、一定の意義を持つものだった。しかし大学に入り、各人の進む分野、将来の方針が様々な方面に広がると、重要になるのは何に取り組んでいるかであって、大学で学ぶそれぞれの学問は、数ある「取り組んでいること」の中の一つでしかなくなる。それを学ぶ理由を見据えておかないと、未来像がなく、虚しいだけ。勉強してどうしたいのか、将来どんな人間になりたいのか、はっきりしないままだから、充実した他人の生活を見た時に「自分にはこの要素が欠けている」と、考えてもしょうがないことを不安に思ってしまう。勉強の手を抜くと一気に堕落するのではないかという不安も、結局自分の将来のあり方がはっきりとイメージできて考えていないから生まれるものだ。他人に「手を抜くな」と言われると不安だから手が抜けないし、逆に「勉強以外の活動に力を入れた方が良い」と言われるとまた不安だから勉強を抑えめにする。全部受動的だ。自分から勉強しているという体だったが、実際のところ勉強すれば認められるという外部からの圧によって自然とそうなっただけだったのだろう。
おそらく、そうやって勉強さえしていればうまくいくほど将来は楽じゃない。むしろ勤勉さに付け込まれて、言われたことをやる都合のいい人間として使われるかもしれない。勉強しろと言っていた上の世代の人間が、大学以降社会に出てから「勉強だけできてもしょうがない」などと言うようになったのは、そういうことなのではないか。この変化に、僕は付いていけていなかった。
とすれば今、一つ取り組むべきタスクが生まれる。つまり、そろそろ将来の方向性くらいは考えろということだ。
きっと、次の学期もすぐに期末試験が来て、その後でまた長い休みが来て、4年生になる。研究室が決まって、卒論がやってきて、卒業がやってくる。その後、大学院で何の研究をするか、あるいはどこに就職するか。その進路の決定権も自分の手中にある。
そろそろ、具体的な未来を見据える時期にしてもいいのではないか。涼しくなりつつある街を歩きながら、休み明けに向けて気を引き締めた。夏が、終わろうとしている。