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35.14:10 「丁寧な暮らし」?本当に?
今日は黄砂が飛んでいるらしい。
遠いゴビ砂漠から遥々飛んできたのか。
などと、感慨にふけるほど好かれていない黄砂。
私も洗濯物が干せないので、嫌いだ。
嫌われ者の黄砂。
どうせなら花びらとか、いい香りとか、なんだかウキウキするものが飛来してほしいものだ。
先日ある本を読んだ。
その本では、ある登場人物が「丁寧な暮らし」に振り回されていた。
読んで以来、私はもやもやしていた。
今日、気まぐれにスマホのメモアプリを開くと、思考をメモしたファイルに書かれた次のような言葉が目に留まった。
「丁寧な暮らしなんて本人の満足次第。誰も押し付けていないのに押し付けられているように感じる。そこが問題。」
驚いた。
本を読んだ際には、この言葉を綴ったことすら忘れていたが、まぎれもなく自分が書いたものだった。
どういった経緯でこんなことを書いたのかは、もう覚えていないが、思うところがあったのだろう。
本を読んで以来もやもやしていた気持ちが、少しクリアになった。
何故もやもやしていたのか。
それは、丁寧な暮らしに対する私自身の憧れと、それに振り回されつつあることが、登場人物に重なってしまったからだ。
私は違う。
そんなことない。
そう思いながら読んでいたが、実際は心にとげが刺さったようで、気分が悪かった。
何かに振り回されいる自分を客観視すると、何と滑稽なのだろう。
そんな自分が恥ずかしくて仕方がなかったのだ。
でも本当は、それを恥ずかしいと思うこと自体が、振り回されている証拠なのかもしれない。
「丁寧な暮らし」自体は決して悪いことではない。
ましてやそれに憧れを抱くことは恥ずかしいことでも何でもないのだ。
更には、「丁寧な暮らし」を目指して、結果振り回されたとしても、いつかは考え始める。
「自分にとって本当に丁寧な暮らしは、どんな暮らし方なのだろう。」
SNSやYouTubeで発信される「丁寧な暮らし」とは違っていても、本人が満足すればそれでいいのである。
押し付けられている、とどうしても感じるときは、きっとそれが自分には合わないと無意識に感じているのだ。
これは自分と向き合うチャンスなのだろう。
正解なんてない。
誰もが同じ暮らし方を丁寧だと思うことはないし、思う必要もない。
本を読んで、どこかで感じていた「恥」の気持ちを、過去の自分自身が救ってくれた。
私は「丁寧な暮らし」がしたいと考えているし、それで良いのだ。
ただ自分にとっての丁寧とは何か、という問いにこれから取り組んでいく必要があるだけだ。
人の思考は面白い。
自分が自分に助けられた、そんな経験だった。