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73.8:46 「正解」ではなく、自分の「解」を持つ。ーリトルミイの名言に学ぶ

母が我が家に滞在している。
ん?滞在?
もう住んでいるようだ。
早数週間。
今回のプチ移住もいよいよ終盤。
今日も元気にテレビを楽しそうに観ておられる。
寛げて何よりである。
このまま何事もなければいいのだが。


みんな大好き、ムーミン。
幼い頃は、あの少し暗い雰囲気に馴染めないでいた。
テレビ放送をいつも観てはいたが、好きかどうか分からなかった。
しかしその頃の記憶は私の奥深くに残っており、キャラクター名などは今でもよく覚えている。
そして、数十年を経て、やっとムーミンブームが私にやってきた。
ガチャガチャでフィギュアを集めたり、キャラクター図鑑を買ったり。
せっせとムーミン関連商品を収集する日々。

好きなキャラクターはリトルミイだ。

ミイの言葉にこんなものがある。

「それがあんたのわるいとこよ。
たたかうってことをおぼえないうちは、
あんたには自分の顔はもてません。」
『ムーミン谷の仲間たち』より

私はこの言葉がなぜか好きだ。
自分の心を奮い立たせてくれる。

しかし、果たして私はこの言葉を「正確に」解釈出来ているのだろうか。

私は原語が読めないので、ひとまず英語を探してみた。

"You’ll never have a face of your own until you’ve learned to fight."

完全ではないが、検索で上記がヒットした。
ほぼ日本語と同じ訳であろう。

私がこの言葉から感じたのは、何事にも「立ち向かう」ということが出来なければ、逃げているばかりであったら、自信はつかないし、自分自身が確立できない、というようなことだ。

自分の状況に当てはまって、グサッときたのだ。

ただ、先ほども言ったように、これが「正解」なのかは分からない。

私はいつも「正確」「正解」、そういったものに拘ってしまう。
もし解釈が違っていたら、と思ってしまうのだ。

著者の意図と違っていたら嫌だな。

そんな風に思ってしまう。
できるだけ正確に、正しく物事を把握したい。
間違うことがひどく苦手だった。

しかし自分で発信していくことを通して、私の意図に対して、ひとの受け取り方は千差万別で、それはコントロールできるものではないし、する必要もない、と気づいた。

こう受け取ってほしいと思っても、そうは上手くいかないものだ。
自分の技術のせいかもしれないが。

そう思うと、私がリトルミイの言葉から受け取ったことは、私にとっては正解なのだ。
いや「正解」という考え方がもう拘っているのだろう。
私が受け取ったことは、それで一つの「解」なのだ。

私がこの言葉から感じたことを他の人も同じように感じるわけではない。
ひとにはひとの「解」がある。
それは当然なのだ。
トーベ・ヤンソンが意図したこととも、違うかもしれない。
それも当然だ。

こうでなければならない。
そんな思考にがんじがらめになっていた私にとって、この気づきは大変大きなものだ。

気が楽になったといった方が良いかもしれない。
このnoteなどで発信することは、自分自身の成長につながったのだなと、改めて感じた。

自分の古い価値観に立ち向かえたのかもしれない。
そうだ。
ミイのいうように、私はやっと少し「たたかうってことをおぼえ」たのかもしれない。
いつかじぶんの顔をもつために。

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