フリーランス 中編
中編に入る前に。
無名の謎の芸人の文を読んで頂きありがとうございます。
僕は、人の背景や後日談、夜明け前的な事が好きで、巷で言われてる“風の時代”そして、これから来るであろう“ドキュメントの時代”に向けての僕なりの表現をしたいと思ってます。(もうすでにそんな時代来てたらごめんやで〜笑)
一人の人間が見て感じた空間を
僕だけの目線を
皆さんも楽しんで頂けたら幸いです。
あんまり裏側のような所を見せるのはどうかと思ってたけど、良いと思うモノは残すべし!的な思考になったので、勝手に残す事にしやした!
これだけ発信できる時代なのでね。
極小数の興味ある方だけに観てもらえたらオッケーよ
自分の楽しんだ経験が誰かの資料・癒やし・肥やし・生活の何か参考になれば良いです。
僕を知ってる方は、ちょっと重たい感じの箇所もあるかもしれませんが、全部笑って下さい(笑)
ま、心配はないと思いますが、ほんと大丈夫ですからね!
毎日楽しく過ごしてます。
また時期が来たら会いましょうね。
とにかく楽しんで頂けたらと思います!
あと、後輩の方とかに無名の謎の男の経験が微微微ビビビ微量の糧になったら有り難いです。
ま、このnoteに書く事は、僕の説明書兼経歴みたいなもんなんで。
なんか引っかかって、僕に興味があれば気軽に触れあいに来てくださーいっ(笑)
交流、ウェルカムよ〜
ホームページ
↓
https://hatto-return.fun/
という事で、
2014年6月頃に大阪から上京、東京に来たのも初めてで、上京したその日から東京暮らし。
大阪から夜行バスで8時間程かけて向かい、大阪で知り合った当時の彼女(今の嫁)とアルタ前で写真を撮った。
嫁は数日後、大阪に帰る。
ここから、遠距離恋愛が始まると共に同期のヤーレンズ楢原とニュークレープのリーダーと三人暮らしが始まる。
楢原とは、大阪の頃から1年半程ちょっと二人で住んでいた。
ちなみに物件探しや諸々の手続きもほぼほぼ楢原にやって頂いた。
本当に最高のナイスガイ!
持つべきものは友の楢原!
色々、彼、出井も。(ヤーレンズ2人共)にはお礼しないとな。
ありがとね。
そんなわけで、
皆、同じタイミングでフリーになっていた。
東京でゼロからの出発。
最初は、ウッチャンナンチャンさん、バカリズムさん、ナイツさん等所属のマセキ芸能社のオーディションを受けた。
同郷の内村さんや好きな芸人もいて、自分は、何故か当時マセキに向いてるなと。謎の自信があった。(笑)
ネタ見せ会場では、メジャーになる少し前の三四郎さんやニッチェさんがネタ見せの手伝いをしていた。(後で聞いたら遅刻などのペナルティで手伝いをしていたらしい。)
マセキのネタ見せは月に一度あり、マセキのライブを一度観にいって、その半券が無いとオーディションにはエントリーできないというシステムだった。
オリーブゴールドというオーディション組だけが出るライブを新宿Fu−に観にいった。
満員だった。
若い女性も多かったが、男性の笑い声が強かったのは、芸人志望者が多かったからなのかな。
僕らより少し前に大阪から出て来たという『ガクヅケ』というコンビが、ドカドカウケていた。
確か女のホー○レスという歌ネタをやっていて、とても刺激的で色気のあるコンビだなぁーと思った。
翌月にネタ見せへ。
初めて降り立つ駅、両国。
今はどうかわからないが、マセキは所属になるまでの基準は特にないみたいで数年かかる人もいるみたいだった。
とにかくまずは、ライブで結果を出すことしか道はなく、東京での人前での初めてのネタはお客さん無しの、ライバル達と社員さんに見せるネタ見せだった。
会場に着いて受付を待っていると、やたら視線を感じるのでふと、見ると、ガクヅケの木田だった。
先日、女のホー○レスのネタをやっていたヤツだ。
僕は彼(彼女)がメンチを切っているように見えた。(笑)
当時27歳の僕らに対し、20歳の木田。
ネタもそうだけど、尖ってるなぁ〜コイツっって思った。
むしろそんなタイプは好きなので、ムカついた感情など無かった。
ま、ライバルには変わりは無いのでそんな奴もいるよなと思いつつ、とにかく持ち時間の2分のネタを全力でやった。
手応えよりも緊張でいっぱいいっぱいだったのを覚えてる。
確かエントリー40〜50組で受かるのは、7.8組だったと思う。
結果は後日。
2日後くらいにマネージャーさんから連絡があった。
合格。
オーディションには、年齢制限があり、30歳までだった。
僕ら二人共28歳になる歳で、かなりギリギリのチャレンジだった。
周りは20歳前後ばかりで、オーディション組の中では芸歴も年齢も上の方で、負けられない戦いだったので嬉しさと安心感があった。
マセキのネタ見せの後、キングオブコントの一回戦があった。
東京で初めての一回戦、誰も知り合いの居ない中でエントリー待ちで並んでると感じた事のある視線を感じた。
ガクヅケの木田だった。
『またコイツ、メンチ切ってるやん。。。』と思った。
一回戦は合格し、その勢いのまま、後日マセキのオリーブゴールドへ。
ライブ当日はネタもウケ、ライバルだった芸人達がその日は、戦友みたいな感じで良く話した。
終わって打ち上げ。
オーディションメンバーで朝まで呑んだ。
皆、後輩だったけど、同じところを目指す戦友・同志の感覚だった。
その席で、ガクヅケの木田が話しかけてきた、
『あの、、、シルキーラインさん、大阪の頃から知ってました。ネタ見せの時、うわっ!シルキーラインがいる!!っっって思ってめっちゃ見てました。』
相方と木田を挟んで、すぐ三人で記念写真を撮った(笑)
そこから昔、僕らが大阪の劇場前でチケットを売ってる時、通りかかった素人の二十歳前のお笑い好きの木田は、『あ、シルキーラインがいる!!!』って思っていたそうだ。
そして、今日もライブ会場で『あ、シルキーラインがいる!!!』って思っていたそうだ。
て、ことは、数日前のキングオブコント、一回戦の時も
『あ、シルキーラインがいる!!!』っって思っていたんだなと思った。
こいつは、
どれだけ『あ、シルキーラインがいる!!!』って思ってるんだ!!!と思った。
もっと早くその事言えよ〜と思った。
初めてのネタ見せからライブ当日まで、そんな緊張を持ち合わせた好意的な木田の視線を僕は、
『あ、ガクヅケの木田がメンチ切ってる!!!』って思っていた。
木田ちゃん、変な誤解しててごめんね。(笑)
その日からライブで一緒だったガクヅケやフカミドリ(現・演芸おんせん)とは他のライブでも一緒になると嬉しく必ず話をした。
他のライブにも推薦してくれた。
初のマセキライブは、とても楽しく東京で一番最初の美酒を呑んだ記憶がある。
後日、そのライブで高評価だった2組が一つ上のライブに出れると言う連絡があり、所属芸人に混じって、ネタをした。
そこの上のライブでの手応えも悪くはなかった。
良いスタート。
しかし、そこから3ヶ月程、ネタ見せに受からなくなる。
同じ日に受かっていたガクヅケやフカミドリ(現・演芸おんせん)はコンスタントに出ていた。
たった数ヶ月前まで一緒に出ていた僕らより若い仲間もなかなか受からず解散や引退していった。
僕らが受からなくなった時期におそらく組み立てのパーパーが受かりだした。
数年後、キングオブコント決勝進出や今の活躍を社員の方は見抜いていたのだろう。
若さに優り越える何かが無かったのかなと今は思うし、二度もマセキのライブに出れて、仲間もできたからあの経験には感謝です。
2014年 9月
もう無理なんじゃねぇか。
東京の洗礼を浴びる。
いよいよ他の事務所を探す。
オフィス北野 若手present’s『フライデーナイトライブ』というモノを見つける。
オフィス北野は誰もが知っているあのビートたけしさんの事務所で、2ヶ月に一度だけ行われている所属芸人と北野所属を目指すフリー芸人のチャレンジネタコーナーがあるライブだった。
北野のネタ見せでは、所属芸人が自らフリー芸人のネタ見せ審査を行うという、今までに体験したことの無いネタ見せで、コンビ2人共、北野作品が好きだったこともあり、思い切って受けることにした。
それとTVのバラエティが好きだったのと、父親がたけしさんが好きだった影響で『世界まる見え』や『TVタックル』『スーパージョッキー』などのたけしさんのTVを子供の頃から観ていた。
映画はもちろんの事、父親と一緒に北野作品を観ていた。
キッズ・リターンの映画、曲が好きだった。
ここから少し話は遡る。
2000年
僕は、中学2年生。
クラスで目立たないグループの一人だった。
特にいじめられたり、嫌われたりすることも無かったが、中学受験をしたせいか友達も少なく、部活の野球部も万年補欠で、自己主張を嫌われるから止めようと、変に空気を読み自我を出さなかった。
ホントに楽しくなかった。
唯一の救いは、21時頃、部活から帰って3時間程見るテレビ。
それだけが楽しかった。
その年、
映画『BROTHER』が公開されると、何故かクラスのイケイケメンバー等が作品を観たようで、たけしさんのモノマネをしていた。
そんなに似てないなと思っていた。
どのクラスメイトよりも俺の方が似ているのと、たけしさんの事が一番好きな謎の自信があった。
休み時間になると周りの男子が48点くらいの「バカヤローこのヤロー!」をやっていた。
俺なら、調子悪くても73点は出せる。
似てない。
似てない。
お前たちはニセモノだ。
俺がホンモノだ。
休み時間に、こだまするニセモノ達の「バカヤローこのヤロー!」
それが嫌いだった。
俺なら、調子悪くても73点は出せる。
似てない。
似てない。
似ていない。
お前たちはニセモノだ。
俺がホンモノだ。
いつかホンモノの俺が、お前らを屈服させてやる。
ニセモノ達へ。
「バカヤローこのヤロー!」
そんな狂気を抱えながら学校に通っていた。(笑)
ある日の休み時間に不意に
同じ目立たないグループの仲間に「バカヤローこのヤロー!」とモノマネをした。
引くぐらいウケた。
時が止まるくらいにウケた。
いや、止まった。
その評判のスピードは凄まじく、クラス内にも広まった。
まさに”速射砲”だった。
そこから、他のクラスまで噂が広がり約3ヶ月間ほど、全く喋たことの無い女子にもモノマネをふられ、
首と肩を揺らし「バカヤローこのヤロー!」とモノマネをして爆笑を取っていた。
3ヶ月前まで、
女子と全くコミュニケーションのコの字も取れない、大きな石を引っくり返すとウジャウジャ動いている黒っぽい気持ちの悪い謎の生き物のようなヤツが、光を浴びた。
あまりにも意外過ぎるヤツのモノマネは轟いた。
本名は『たくや』という名前なんだが、
一時期『たけし』と呼ばれていた。
あだ名すら付いた。
『たくや』が『たけし』になった。
ニセモノの中のホンモノ
それから、僕に対する周りの目が変わったのを良く覚えている。
学校自体はホントに楽しくなかったけど、イケイケグループにも一目置かれ、女子にもほんとにちょっとだけ人気が出た(笑)
同じ野球部で僕を下に見てた人(勝手な憶測あり)とかは、
「何か、コイツスゲー奴だ!」みたいな感じの接し方になった。
その3ヶ月は楽しかった。
ほんの一瞬だけ売れた感覚。
“メジャー”になった感覚だった。
魔法のコトバ
『バカヤローこのヤロー!』
いつかその“本物”に会えるとは中学2年の服部少年は思っていなかっただろう……。
僕は、お笑いに、たけしさんに救われた。
※(この中学〜高校にかけての自称『バカヤローこのヤロー!伝説』はいつか完全版で書きます。)
北野を受けると決めた時にそんな事を思い出した。
オフィス北野のネタ見せまでには
まず、事前に映像審査があり、ネタのDVDを送った。
後日、無事にネタ見せの案内が来た。
2014年 10月
初めて行く赤坂でオフィス北野の門を叩いた。
前年に賞レース『THE MANZAI』で頭角を現した『馬鹿よ貴方は』さんや過去に無名ながらMー1準決勝進出した『ルサンチマン』さんや同じコント師の『マッハスピード豪速球』が居た。
審査席では、『米粒写経』さん『ダイオウイカ夫(現・やくみつゆ)』さん『ホロッコ』さんやマネージャーさん等が並んでおり、ネタをする芸人が後ろで待機して、呼ばれた順に審査員席の前で待機してる芸人に挟まれる形でネタを披露していく。
ライブ常連組や初めてらしき人も入り混じりネタのダメ出しも芸人目線の愛のあるダメ出しで、思いの外、温かいネタ見せが続いた。
赤坂の会議室でマセキと同じく持ち時間2分の順番を待つ。
「シルキーラインさん、お願いします。」
僕たちの出番が来た。
後編に続く