鯵鯵パニック。
だいすけわたなべです。
鯵の押し寿司が好きだ。毎週、静岡のkmixで金曜日にラジオの生放送をやっていて、月に一度は浜松の本社に行くので、その時に品川駅で買って食べるのがたのしみだ。子供の頃に親父が酔っ払って帰ってきて、鯵の押し寿司を母ちゃんとこっそり食べてるところに、妹といっしょニ段ベッドから降りて、「ひとつください!」と懇願していたことを考えると、全部はひとりで食べていいなんて、まるで夢のようだな、と毎月おもう。大人って最高。
先日、その浜松に行く週の金曜日、ボクはいつも通りに品川駅の弁当売り場に立ち寄った。混雑していたので並んだ。ボクのうしろにも何人か並んだ。ボクは頼むものがすでに決まっているのでショーケースを覗き込む必要はなかった。ボクの番になったので「鯵の押し寿司の安い方と、お〜いお茶の350の冷たい方ひとつください。支払いはSuicaで」と手短に伝えた。鯵の押し寿司には高い方がある。鯵がいっぱい乗ってるから高い。一度だけ、奮発してそっちにしてみたことがある。「なんかちがう」とおもった。ボクの好きな鯵の押し寿司ではなかった。だからそれ以来、気前がいい日でも、高い方にすることはない。お〜いお茶には500のもあるし、あたたかいのもある。だから350の冷たい方と言わないと、「あたたかいのと冷たいのあります。350と500があります」というターンをやらないといけないので時間がかかる。ボクはせっかちなのでそういうムダなやりとりは極力、省きたい。
押し寿司とお茶を受け取り、弁当売り場を後にしようとしたその時、ボクの後ろに並んでいたおじさんが衝撃的な言葉を発したのだ。
「私も同じものを」
え。おじさんおじさん、あなたはボクの「連れ」ですか?ちがいますよね。え。なんですか、その頼み方。パニックなんですけど。鯵鯵パニックなんですけど。いっしょに呑んでて「オレ、レモンサワーおかわりください」「あ、じゃあ私も同じものを」みたいなノリですか。例え同じ鯵の押し寿司と、同じお茶を頼もうとしていたとしても、そこはちゃんと言おうよ。ズルイよ。最短ルートじゃん。一番はやいじゃん。ファミレスでとなりのテーブルのやつがおいしそうだったから「あれと同じものをください」って頼むくらい、なんか恥ずかしいことじゃないのかい。ボクなら恥ずかしくてそんな頼み方できないぞ。いくら、せっかちでもね。床屋で隣の席の人が「横と後ろは刈り上げて、上の方と前髪はちょっと短くしてください」って言ってるのを聞いて「あ、同じだ」とおもったら「隣の人と同じでお願いします」って言うのかい。言わないね。これは言わない。本屋のレジで「吉岡里帆のカレンダー予約したいんですけど」ってボクが言ったとして、後ろに並んでたあなたも吉岡里帆のカレンダーを予約しようとしていたとして「私も同じものを」って言えるのかい。まだいるぞ、ボクは近くに。それでも言えるのかい。そのあと目が合ったら「あ、どうも。吉岡里帆かわいいですよね」みたいなアイコンタクト的な会釈をするのかい。え、どうなんだい。
まぁ別に、そんなに嫌な気持ちになったわけじゃないんだけど。例えばもし、あのおじさんが若い女の子だったとしたらどうだろう。おそらくボクは「さてはコイツ、オレに気があるな」とおもうだろう。当然だ。そんな思わせ振りなことをしたらいけない。それくらいのことを、おじさんは、やったのだ。やっぱり腹が立ってきた。実際、鯵の押し寿司を新幹線の静岡駅を過ぎたあたりで食べ始めた時も、「あぁ、あのおじさんも今頃、オレと同じ押し寿司を食べて、オレと同じお茶を飲んでるんだろうな」とか考えちゃって、月に一度のハッピータイムを豪快に邪魔された。もし、それが女の子だったら「あぁ、あの子も今頃、、、」とさらに幸せな時間になったはずだ。
何が言いたいかというと、ボクもついにおじさんになってしまったということだ。こんなことを気にするのは、おじさんになった証拠なのだ。かなしい。実は最近「あぁ、オレもおじさんになったなぁ」とおもう時がけっこうあって、それは大体、他人の言動が過度に気になってしまう時なことが多い。抗うことはできない。受け入れていこう。居酒屋で一杯目のビールが遅くてもイライラしないようにしよう。芸能人の名前がなかなか思い出せなくても、あきらめずに思い出そうとする努力をしよう。
今度また後ろに並んだおじさんが「私も同じものを」と頼んだとしたら「おいしいですよね、鯵の押し寿司」と言えるくらいの余裕を持って生きていこう。