アスタラビスタ 5話 part1
あれから動悸や吐き気、眩暈に襲われることはなくなった。不安になる要素もなくなり、抗不安薬を飲むのもやめた。
本来あるべき健康な生活を、私は取り戻しつつある。しかしそれでも、心にぽっかりと穴が空いている状態は変わらず、未だ喪失感は消えない。
雅臣と薙刀で手合せをした後、私は彼ら三人に問い詰められた。薙刀での私の動きが、ただならぬものであると感じたらしい。
私は初めて、別れた彼以外の人間に薙刀を本格的にやっていた頃の写真を見せた。それは私が全国大会で二位になった時、記念に撮ったものだった。
写真とその事実を彼らに伝えると、彼らは宇宙人でも見るかのような目で私を見た。清水はどうやら高校時代、剣道で関東大会二位になったことがあるらしいが、そんな実力のある清水も私の過去には驚いていた。
その後、改まって清水から剣道と薙刀の異種試合を申し込まれたが、私はまだ病み上がりということもあり、もう少し身体を鍛えてからという結論に至った。
圭はというと、私に薙刀を教えてほしいと執拗に頼み込んできた。私は薙刀について知識面で忘れていることも多かったため、心苦しかったが断った。自分で戦う分には問題ないのだが、もし私が教えて、間違ったことを伝えてしまったら、薙刀にも圭にも申し訳ないような気がした。
喪失感は消えない。けれど私は変わった。変われたからこそ、身体の不調と別れを告げることができ、少しばかりだが健康を手に入れられた。
本当に少しの違いだった。自分が自分であること。自分の意志を持つこと。自分に自信を持つこと。それらはすべて私の内側の問題だった。
私にとって薙刀は、唯一自分に自信を持つことができる、本当の私になれるものだった。例え今、心にぽっかりと穴が空いていたとしても、自分の意思を持つことができた私は、きっといつかこの喪失感から解放される。
「一旦、休憩しよう」
貸切にした区営体育館の武道場で、私は雅臣と二人で薙刀の手合わせをしていた。最近はそれが日課になっていて、大学が終わった後、雅臣のマンションの駐車場で待ち合わせをして、二人で道場に向かうのだ。
こうして頻繁に二人で稽古をするようになった私たちは、稽古着である袴を着て稽古するのではなく、Tシャツとハーフパンツというラフな格好で防具をつけて稽古をしていた。
武道の凛々しさはなくなり、おかしな見た目にはなるが、蒸し暑い武道場で手合わせをするには、この格好が最適だった。何よりTシャツとハーフパンツの方が着替えるのも早く、すぐに稽古に打ち込める。
道場の端へと、休憩するために移動する。私より先に薙刀を床に置いた雅臣は、素早くすべての防具を外し、のろのろと防具を外す私に、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを差し出した。
「さっきそこで買った。飲んどけ」
私は両手でペットボトルを受け取り、「ありがとうございます」と小声で言った。キャップを外し、ミネラルウォーターを口に含むと、心地よい冷たさが口の中に広がった。
「お前、随分変わったな。体調も日常生活に異常はきたさない程度になっただろ」
私の隣に座った雅臣は、ミネラルウォーターを飲む私に言った。口に入っていたミネラルウォーターを飲み終えると、私は頷いて答えた。
「随分変わりました。前はなんというか……自分の心が身体の外側にぶら下がっているような感じだったんです。でも今はちゃんと、自分の心が自分の手元にあるのが分かります」
なんだか言っていることが抽象的で、自分でも恥ずかしくなったが、雅臣は終始嬉しそうに笑っていた。
雅臣がこんな風に優しく笑うなんて、最初は知らなかった。いつも眉間に皺を寄せていて、口調も厳しかったから、てっきり冷たい人間だと思っていた。けれど私は薙刀を通して、彼が本当は気さくで面倒見がよく、心優しい人間であることを知った。
「でも、よかったです。雅臣さんのおかげで、私はまた薙刀ができるようになりましたから。今は楽しいです。本当にありがとうございます」
私が雅臣に言うと、彼は驚いたように目を見開いた。
おそらく雅臣とは、とても仲良くなれたと思う。人付き合いも苦手で、独りが好きな私の基準では、たかが知れているかもしれない。だが、私の中では、これまでにないほどの良い友人関係だった。
彼が私をどう思っているのかは分からない。私が不安定な人間であることを知って、ただ心配しているだけなのかもしれない。だからこうして頻繁に会い、稽古の相手をしてくれているのかもしれない。
でも、それでもいいと思った。私は心と身体を病み、一つだけ分かったことがある。自分がよければ、それでいいのだ。私が彼と友人になりつつあると思ったら、そう思い込んでいいのだと思う。私は彼に対して、みかえりを求めているわけでもない。
……そんなものを求めるのは、自分勝手なことだと、私は失恋で大きく学んだ。
だから私は何も求めない。
彼がもし、私の思っている関係を感じていなくても、それは彼の中での私との関係であり、私の考察すべきところではない。