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アスタラビスタ 4話 part6

「ねぇ、聞こえてる?」

 私は「聞こえているよ」と彼に返事をした。いくら風が吹いていても、こんなに近くにいるのだから、彼の声が聞こえないはずがない。

「寒くない?」

 彼は私の手の甲を優しく撫でた。彼の手はいつも汗ばんでいる。「汗、かいてるよ」と私が言うと、彼は「ごめん」と微笑み、洋服の裾で手を拭って、私の手の上に自らの手を重ねた。

 夕暮れが広がる空の下。私たちは河川敷の芝生に座ったまま、夕日を眺めていた。今日は夕日を見に行こうと以前から計画していたのだ。

「大丈夫。寒くないよ」

 河川敷は夕暮れの冷たい風が吹き渡っていた。昼間は半袖でいても平気だったが、日が落ち始めると、やはり身体が冷える。

「我慢しなくていいよ。寒いんでしょう? 腕冷たいよ?」

 彼は自分が着ていた黒のパーカーを私の肩に掛けた。彼の温かさと、彼の家で使っている洗剤の香りが私の周りに広がり、幸せを感じる。私はこの香りが好きだ。隣にいる彼にそう伝えると、彼は笑った。

「じゃ、いつか一緒に暮らすようになったら、この洗剤を使おうね」

 彼の提案に、私は大きく頷いた。

「俺、家事も洗濯もなんだってやるよ? 紅羽は休んでいていいからね」

「私だってやるよ」

 彼が頼もしくて嬉しかったが、「ありがとう」と言ってしまっては、彼女としていけない気がした。

「じゃ、二人でやろうね」

 彼は目を細め、私を見て言った。いつもこうやって二人で一緒にいるのに、今日の彼は普段に比べて穏やかで、幸せそうな顔をしている。

「どうしたの? すごく嬉しそう」

 私が彼に囁くと、彼は私の手に自分の指を絡めながら呟いた。

「紅羽が夕暮れを見たいって言って、こんな素敵なところを見つけてくれたから。だけど、どうしてわざわざ電車にまで乗って、この河川敷に来ようと思ったの? 他にも夕暮れを見られるところはあったのに、結構遠出だったけど」

 私は大きく息を吐き、夕日が沈みつつある西の空へ顔を向けた。

「帰省する時に、電車からここの河川敷が見えたの。私が見た時は昼間だったんだけど、きっとこの河川敷で見る夕暮れは絶景に違いないって思って」

「そうだったんだ。ありがとう。この場所を見つけてくれて」

 彼は平気で照れくさいことを言うから、私の方が恥ずかしくなる。顔をそむけた私に、「どうしたの? ほら、こっちに顔を向けて」と彼は耳元に囁いてきた。本当に彼には敵わない。彼は私の何もかもを見透かしている。それが恥ずかしいようで、心地よいのだ。彼は私のどんなことも理解してくれている。こんなに理解してくれる人なんていない。胸を張って、自慢の彼だと言える。

 強い風が河川敷を吹き渡った。私の髪が隣に座る彼の頬をかすめた。

「くすぐったい」

 風になびいていた私の栗色の髪を捕まえて、彼は夕日の光に透かした。

「嫌なら、もうちょっと離れればいいのに」

 髪を抑えようとしても片手は彼に握られているし、僅かに髪の束が彼の方向へと風に運ばれてしまう。くすぐったいのが嫌なら、離れてもらうしかない。

「くすぐったいのは我慢できるけど、離れるのは嫌だよ。せっかく二人きりなのに」

 彼がぽつりと呟いた。私は安心した。もし、呆気なく離れられてしまったら、どうしようかと思った。彼は私が求めているものに、私自身が知らない感情にも、すべてに気づいてくれる。

「昔から思ってたの。幸せになったら、誰かとこうやって夕日が沈んでいくのを見たいなって。でもなんでだろう。どうしてそう思ったのか、思い出せないの」

 私は幼い頃から、誰かと夕暮れを見たいと願っていた。いつか自分が一番大切だと心に決めた人と。けれど、どうして私が昔からそんなことを考えていたのか、理由がまったく分からない。思い出せないのか、それとも思い出したくないのか。

「いいんじゃないかな? 無理に思い出そうとしなくても。今が幸せなら、それでいいじゃないか」

 「そうだね」と私は小さな声で答えた。そうだ。もういいのだ。過去のことなど。今、私はとても幸せだ。それが事実であり、現実。悲しい過去を振り返る必要などない。これからの人生には彼がいる。私はもう悲しみを背負う必要も、未来に対して不安になる必要もない。

「紅羽の髪は、きれいだね」

 彼が風になびく私の髪を見つめて言った。風が止み、髪が静かに私の肩へと舞い戻ると、彼は夕日を見るでもなく、川の対岸へぼんやりと視線を向け、無表情になった。

 再び吹いてきた風は、先程よりも冷たさを増しているような気がした。近くにいるのに、どういう訳か、私と彼の間には冷たい風が抜けるほどの隙間がある。それが、私と彼の埋まらない心の距離だと、誰かに言われている気がして不安になった。そんなことはない。私と彼はいつもこうして一緒にいる。一心同体と言えるほど。だが、一人の人間として生きている以上、彼との距離をなくすことはできない。生きている以上、身体がある以上、肉体が邪魔をして、私と彼の距離を零にすることはできない。

「紅羽は、俺にとって理想の女の子だよ。綺麗な茶色の髪と、白い肌。本当に驚くくらい」

 彼が笑顔で私に語りかけてきた。私は単純に、その言葉を喜んだ。

 私と彼の出会いは運命だったのだ。もともと決まっていたこと。私が生まれた時から、こうなるように、私の人生は作られていたのかもしれない。辛くても悲しくても、こうしてすべてから解き放たれ、幸せになるよう、神様は私に計らってくれたのかもしれない。

 これが私の悲しい人生の終止符だったのだ。辛いお話は、悲しい物語は、もうこれでおしまい。おしまいなのだ。

 夕日は静かに沈んでいった。僅かに空に夕暮れが残っているだけで、東の空には星が見え始めていた。もうすぐ夜がくる。

「そろそろ、帰ろうか? 送って行くよ」

 彼が立ち上がり、繋いでいた私の手を引いた。

「いつもごめんね」

 手を引かれるまま、私が立ち上がると、彼は首を横に振った。

「いいんだよ。俺がしたくてしてることなんだから。少しでも長く紅羽と一緒にいたいんだ」

 私は彼に手を引かれて、西の空に背を向けた。しかし名残り惜しくて、もう一度西の空へと振り返った。

 私は、今日のことを忘れない。今日彼と一緒に見た夕日の色も、鮮やかさも、日差しの温かさも、風の冷たさも。彼と話したことすべて。

「また来よう。ここは、俺と紅羽二人だけの大切な場所だよ」

 私の様子に気づいた彼が、優しく言った。彼の言葉を聞いて、私は安心した。また来られる。そう思えば寂しくはなかった。

「ねぇ、紅羽。大好きだよ」

 立ち止り、私の両手を包み込んで、彼が面と向かって私に伝えてきた。視線は包み込んだ手から、私の瞳へとゆっくり上ってくる。彼と視線が合った時、私は彼に言った。

「そんなの、知ってるよ」

 心の中で、「私も」と答えた。けれど恥ずかしくて、強がりで、意地っ張りだから、素直になかなか答えてあげられない。いつも彼には悪いと思っているから、その分私は彼に「いつもごめんね」と言う。「ごめんね」という一言に、私はすべての気持ちと、「ありがとう」を込めている。本当は「私も大好きだよ」と言えるようになることが、彼が喜ぶことなのだと分かっている。だが、それにはもう少し時間がかかりそうだ。

「知ってるかもしれないけど、俺はこれからもずっと伝え続けるからね」

 再び彼は歩き始めた。「さぁ、帰ろう」と私の手をぐいっと引く。そのせいで肩に掛けていた彼のパーカーが落ちそうになって、私は必死に押さえた。


 なんだか幸せで、愛おしくて、彼のパーカーの生地に頬を擦り付ける。


 私の大好きな彼の、あの洗剤の香りがした。






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