orientedからnon-oriented(非志向性)へ―"向かわない"社会の私たち
僕たち社会は常にoriented的だった(ように導かれてきたのではないか)。
oriented="目指"してきた社会
orientedとはなんらかの方向を"向いている"、"目指している"ということを意味する。これは西洋におけるスタンダードな考えだと言っても問題はないと思う。(まさに僕たちのいる東洋が植民地主義的思想のもとで、彼らに"オリエント"と名付けられたように。)
この思想とは、例えば資本主義的的な観点から見れば、GDPであれ、株式市場であれ、常に"成長し続けることを志向してきた"のが一つのわかりやすい事例だ。
ここで、実は僕たちの思想そのものが(極端な物言いだが)西洋的価値観の広まりとともに、徐々にoriented化してきたと言えるのではないだろうか。
その起源がいつか、の考察は他者に譲るが、少なくとも戦後、あるいは高度経済成長期には、日本社会のoriented化は相当程度進行してきた。
思想のoriented化とは、どういうことか?
思想のoriented化とは、どういうことか?
例えば僕は5年前、"やりたいひとと、ありたいひと"に関して述べた。ここには、「やりたいこと」タイプの人は「山の登るように」目標に対して近づいていく、と書いた。この「山を登るイメージ」こそが、"oriented的思想観"だ。
実はこうした"山を登る"=oriented的思想観が日本社会にインストールされたのは、ここ数十年のことだ。象徴的なのが、「幸福」という概念の輸入。
実はかつて、日本に「幸福/幸せ」という概念はなかった。では日本人はどんな言葉を使っていたかといえば、「穏やか」や「安らか」がそれにあたると言われている。
いまここで「幸福」とは何か、を素朴に考えてみよう。
私たちは幸福を何か「目指すべきもの」だと認識していないか。「幸せになりたい」というとき、幸せは"ここではない、どこか"にあるように思われる。
その"ここにはないもの"を目指そうと(=志向)すること。これが「oriented的思想観」だ。
こうしたorientedな言葉遣いが、長く社会を広く席巻してきた。
資本主義的側面はもちろん、個人のレベルでも「夢をつかむ」「未来を拓く」「やりたいことを見つける」「幸せになりたい」「生き方に出会う」…。
どれも"ここにはないものを目指す"、つまりoriented的思想観の言葉そのものだ。
"oriented"から"non-oriented"へ
しかしいま、このoriented的思想観が限界を迎えている。
「目指された(oriented)幸せ」は、そこに到達したとき、既に「次の幸せ」が見えている。私たちは本質的な意味において幸福に到達できない。oriented的世界観では、つまり幸福は「馬の顔の前にぶらさげられたニンジン」なのだ。
それでも社会が(それが本質的かどうかは別にして)"成長"できていると認識していたうちは、それでも成立してきた。
しかし、社会自体が成長を消費できなくなったいま…即ち、見田宗介が言及する「地球の有限性」を知覚したいま、私たちはこの「oriented的思想観」の限界性を知覚したのである。
そこで私たちが社会の変曲点で模索してきたのが、「non-oriented=向かわない」世界だ。
夢、未来、やりたいこと、幸せ、生き方…。これらは全て本質的に「向かわない」世界観の中で獲得されるはずだ(獲得というより、non-oriented的な表現に直せば"感じられる"、あるいは"すでにある"というべきだろうか)。
しかし実は、日本にあった幸せ(=穏やかさ、安らかさ)は、昔からorientedではなくむしろ"そこにある"ものに着目しようとする…すなわち、「向かわない」思想観だったのではないか。近年の禅の流行は、その最たるものと言ってもよさそうに思う。
non-orientedであるとは何か?
non-orientedとは何か?
それは、「山を登らない」システムの総体を意味している。
個人のレベルで言えば「つかむ」「拓く」「探す」「達成する」…といった言葉に内在するoriented性を自覚することから始まる。
1年前、以下のような記事がSNSで拡散された。
彼は「情熱を"探そう"」という言葉に反対し、エーリッヒ・フロムを引用して以下のように述べている。
私たちは最愛の何かを見つける物語を好みますが、しかし現実ではむしろ愛することを学ぶことが重要だというのが彼の弁です。
情熱においても同じことが言えるのかもしれません。私たちは情熱を探すのではなく、情熱を育てる技術を育むべきだと。(太字は筆者による)
これこそが正に「non-oriented的態度」だと言ってよい。
それは言語的には、「つかむ」「拓く」「探す」「達成する」思想から、「まなぶ」「はぐくむ」「みつめる」「みがく」思想への転換である。
もちろん、これは単純に言語のレベルで述べていない。
non-orientedは、本質的な意味で、例えば「幸福」を「外部(ここではないどこか)」ではなく、「内部(自己)」に引きつけて思考することを要請する。
それは、そこに既にあるものを見つめる"知足"的な考えでもあるだろうし、あるいはビジネス的に見つめ直すならば、それは具象としてのサステナビリティなどをはじめとするグローバル下における"サーキュラー(円環的)"な思想だとも言えるだろう。
今はまだorientedの否定形としての「向かわない」思想は、より洗練された形で社会に実装され、言語化されていくだろう。
"向かわない"社会の地平から
このnon-oriented="向かわない"思想観からいま、私たちの認識を、あるいは社会のしくみを見つめ直す営みが必要なのではないか。
ちなみに日本と西洋の対立論にする気は毛頭ない。
変化は東洋・西洋を問わず起こっているはずだ。"禅の思想"が唯一無二にスペキュラティブなわけでもないだろう。
当然、"向かわなさ"のデザインが世界的にいま、生まれ続けている。その思想が「山を登る」型からの転換であるならば、実はホラクラシー型組織も、サーキュラーエコノミーも、"non-oriented design"としての同一の思想観の中に位置付けられるものになるだろう。
non-orientedとは、山に登っていくイメージではないと書いた。これは即ち、non-oriented(=向かわない)とはnon-linear(非線形)である…すなわち、何かや誰か、あるいはある価値基準に従属しないことをも意味する。
ならばこの地平に私たちが私たちの足で立つとき、私たちはより自由で独立した存在として、社会へのAutonomy=自律性や、Capability=選択可能性を最大化していけるのではないだろうか。
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