コモニング Commoning とはなにか?
本記事は、コモニング commoning とはなにか?という問いに答えつつ、その議論の全体像を可視化することを目的とした記事です。
コモニング commoning は、2008年にPeter Linebaugh「The Magna Carta Manifesto」によって社会に広まった、新しい概念です。しかしコモニングを考えるためには、「共有地の悲劇 the Tragedy of the Commons」(Hardin, 1968)という言葉でよく知られるように、コモンズ=共有地に関する、Hardin以降だけでも半世紀を超える議論を確認する必要があります。
さて、コモニングに関する話をする前に、コモンズとはなんでしょうか?
その語だけを見れば、それは「共同で所有・管理されるもの」として捉えることができます。具体的な例をあげれば、物理的なものとしてファブラボや都市農園 urban garden 、社会的なものとしては地域通貨やマンションの管理組合、あるいはオンラインの実践としては、wikipediaやgithubなどのオープンソースネットワークなどが含まれるでしょう。あるいは、別の切り口としてSandströmら(2017)の分類を借りれば、漁場や森林などの「生産コモンズ」、町内会などの「連帯コモンズ」、方言や国旗、"俺たちの空気"のような「象徴コモンズ」といったこともまた、コモンズとして認識することもできます。
多くのコモンズ研究者が述べるように、コモンズは「私 private」と「公 public」という二元的な区分を乗り越える、新たなレイヤーを検討しようとする営みです。それはこれまでの「個人の振る舞い」と「全体での調整」という二項対立を超えた、広く社会経済体制全体に対する多様な議論を呼び起こします。
例えば、私がモノを買えば、そのモノの所有権は私にある、と(少なくとも日本では)言ってよいように思われます。しかし、友達同士で普段使う広場のようなものがあったとするならば、その所有権は本当のところ、一体誰にあるのでしょうか(誰にあるべきなのでしょうか)?
コモンズの議論は、このような既存の個人か全体(政府)か、という二元論の「あいだ」を問いかけます。結果としてコモンズに関する議論は、経済的な観点(宇沢の制度主義)、互酬の議論(ポランニーなど)、農村開発論、コミュニティ論、都市計画や建築領域、フェミニズム論、アクティビズムやソーシャルデザイン論など、広い領域にわたっています。
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こうしたなか、国内でも動詞としての「コモニング commoning 」というワードが少しずつ取り上げられつつあります。しかしながら、結局そのキーワードがどのような文脈に位置づけられていて、どのような議論が行われているのかに関しては、包括的な下地が共有されていないように思います。
コモニングとは端的に言えば、コモンズの関係的・実践的な側面―人々がコモンズを編み直し続ける実践と、それを取り巻く関係性―を指し示す用語です。その視点でコモニングを見ると、コモンズが統治や所有の方法から実際の事例までを幅広く議論しようとする領域であるのに対し、コモニングはより実際の人々の実践と関係にフォーカスしていることが特徴にあるといえるように思われます。
本記事では、このコモンズの実践的・関係的な側面としてのコモニング、そのなかでも特に、空間的・物理的な実践に特に焦点をあてつつ、コモニングの概要、歴史、事例および主要論者について、大まかな全体像を把握することを試みます。
I 概要: コモニングとはなにか?
I-1. コモンズの歴史
コモンズとはこの半世紀にわたり、権利の配分や規制のない財産であり、すべての人に属し、したがって誰にも属していない、という概念でした(Eizenberg, 2012 referring Gordon, 1954)。
そもそもこの議論を遡ると、元々は土地を持たない農民を支えていた、イギリスでの共同放牧地 common grazing land にたどり着きます(Noterman, 2016)―ちなみに、このようなコモンズとともに生きる「平民」のことを、当時は「コモナー commoners」と呼んだようです。
しかしながら、コモンズは14世紀頃には既に批判されはじめ、18世紀にはほとんど"囲い込まれ"たと指摘されています(Eizenberg, 2012, referring to Goldman, 1997)。ここでの「囲い込み enclosure 」(Blomley, 2008)とはつまり、所有権という概念が広がるなかで、コモンズの私有化・国有化が進んだ、ということです。
さて、一体どのような考え方が、このようなコモンズの私有化・国有化を推し進めたのでしょうか?
これを説明するために、ギャレット・ハーディン Garrett Hardin の「共有地の悲劇(コモンズの悲劇) the Tragedy of the Commons 」という言葉に着目してみましょう。この言葉は元々、ハーディンが1968年にScience誌にて発表した論文のタイトルでした。ここでハーディンが述べていることは、端的に言えば、コモンズは不可能だ、ということです。ハーディンの主張を簡単に要約すると、以下のようになります。
この考えの大本にあるのは、土地や空間は、適切に"所有"されなければならない、という考え方です。コモンズがある、ということは、いわば「誰にも所属していないままの空間が残されてしまっている」とみなされてきた。つまり、コモンズの存在は、統治や管理の失敗だと見なされてしまい、そのような見方がもたらした帰結として、コモンズは次々に解体されていってしまったのです―Hardinを皮肉って、Eizenberg(2012)はMobiotのこんな言葉を紹介しています。
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しかしながら、このハーディンによる「コモンズは持続不可能である」という考えを否定し、コモンズの議論の発展に大きな貢献を果たしたのが、エリノア・オストロム Elinor Ostrom という経済学者でした(彼女はこの貢献によって、2009年に女性初のノーベル経済学賞を受賞しています)。
オストロムは、1990年に「Governing the Commons」という著を発表しました。この著作は、経済学的観点からコモンズの維持・自立について検討し、コモンズの8つの統治形態を明らかにしたものです。端的に言えば、この議論の価値は、「コモンズは可能だ」ということを示したことにあります。
(あくまで学術界の視点から見れば)この1990年代のオストロムの功績がコモンズに再評価に繋がり、それ以降、コモンズに関する議論は大きく広がってきました。
ところで、ハーディンは「コモンズは持続不可能だ」と述べた、と先ほど書きましたが、それではハーディンの「共有地の悲劇」は、何を誤っていたのでしょうか?
エステヴァ Gustavo Esteva(2014)は「ハーディンが言うコモンズは、コモンズではなかった。それは収穫者の利益が唯一の、単なるオープンアクセス体制だった」と指摘しています。そのような場とは、もう少しひらいて言えば、「誰もが自由に入り込んで、勝手にそこにあるものを持ち帰ったり消費したりしてよい場」です。そのような場が持続不可能であることは、考えるまでもなく明らかでしょう。コモンズは本来そのようなものではなく、その空間やアクセスを管理するコミュニティを必要とするものだとBollierは述べています(Bollier, 2020)。
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さて、オストロムの功績によってコモンズの議論が広がってきた、と述べました。ここで重要なのが、コモンズが経済学の議論から、それ以外の空間へと広がってきたことです。経済学からそれ以外の空間へ、とはどういうことでしょうか?
ヴァルヴァルーシス Varvarousis(2020)は、オストロムに関して2つの興味深い指摘をしています。一つはオストロムはコモンズが「可能だ」ということを示したが、コモンズが"良いかどうか、広がるべきかどうか"は彼女の焦点ではない、ということ。もう一つは、オストロムはあくまで「経済学の基盤」に立脚点を置いているということ。経済学の基盤に立脚点を置いている、とはつまり、オストロムの議論は「資源は配分・管理されるべき」だ、という仮定に基づいているということです。
このような考え方に対してEsteva(2014)は、私たちはそのような経済学的な仮定から逃れなければならないと強く主張しています。オストロムは著作の中で、コモンズを「commons pool resource (仮に共有貯蓄資源、という訳をあてておきます)」として捉えています。しかしEstevaはこれは間違いではないか、資源はコモンズの反対語なのではないか、と述べています。なぜなら「資源」はそもそも、所有され、管理され、配分されることを前提としたワードだからです。そうではなく、こうした経済学的な仮定そのものに対してオルタナティブな流路を作っていこう、とEstevaは述べているのです。以下の一文に、Estevaの主張が要約されています。
現在のコモンズに関する議論は、こうした議論の流れのなかに根ざしています。つまり、経済学的な議論はもとより、経済のオルタナティブとしてコモンズを捉えようとする営みのなかで、実践としてのコモンズ―都市計画やソーシャルデザイン、コミュニティ論といった領域において、「コモンズはどういう特徴があり、どう可能か」という議論が行われていたり。あるいは、新たな体系としてのコモンズ―コモンズとしての統治や所有とは、一体どのようなものか、という議論が行われていたり。あるいは、ネオリベラル的な至上主義経済に対し、フェミニズム論側からケアの復権としてのコモンズが語られていたり……といった議論が、多様な領域で(物理的なものも、オンラインのものも含めながら)、同時多発的に起きている、というのが現状だということです。
この意味で、抽象的なものから実践的なものまで、全ての議論を示すことはここではしません(できません)。以降、特に空間やコミュニティなど、物理的でプラグマティックな側面から、コモンズ/コモニングを捉えて説明してみましょう。
I-2. コモンズの概要
さて、定義も示さぬまま、コモンズのこれまでについて長々と語ってきました。ここからは、コモンズとはなにか、の説明を試みます。コモンズは確かに「共同で所有・管理される」ものです。しかし、その意味合いをもう少し深堀りしてみるならば、大雑把な分類になることを承知で、コモンズはおおよそ、以下のように位置付けられてきたように思われます:「①伝統的な二元論を乗り越える概念としてのコモンズ」、「②自治を回復するためのコモンズ」、および「③私たちによる、私たちの関係的実践としてのコモンズ」。それぞれについて見てみます。
① 伝統的な二元論を乗り越える概念としてのコモンズ
既に述べてきた「私 private 」と「公 public」という二元論をはじめ、いくつかの伝統的な立場を問い直すものとして、コモンズは捉えられるのではないか、という(より抽象的な)捉え方があります。すなわち、以下のようなものです。
これはまた同時に、既に述べたように、広範な社会・経済体制に対して、別の方法もあるのではないか、という疑問を投げかけるものでもあります。
② 自治を回復するためのコモンズ
例えば公共空間などは、かつてコモンズ的であったものが公有化されることで―それは元々は、前向きに行政に対して信託されたものであったのかもしれませんが―、私たちが参画する権利が失われてしまった空間だ、ということができます。つまり、Bollier(2020)を引けば、以下のように言えます。
ここでは、特に奪われたものを取り返す、市民の手に取り戻していく、という考え方が優位に立っていることがわかります。
③ 私たちによる、私たちの関係的実践としてのコモンズ
上記のような二項対立的な考えに対し、Bresnihan and Byrne(2015)は、外部から見ると「主権を取り戻す」ような政治的な活動に見えたとしても、実はコモンズを現場で見てみると、コモンズはそのような政治的・倫理的な意図からは始まらない(少なくとも、彼らの研究対象においては)ことを指摘しています。コモンズは(日本のローカルな動きでもたびたび言及されていますが)、「主権を取り戻そう」といった主張よりも、「私たちの暮らしをより豊かに」「やりたいからやる」といった、より個人的な態度に立脚する実践として位置付けられるのではないか、と彼らは言うのです。
このような立場を反映したのが、以下のような見方です。
I-3. コモニング Commoning の概念
上記の③のような捉え方はまた、①の説明とも折り重なりながら、「コモンズは関係性 relation である」という説明へと連なっていきます。
David Harveyを引用しつつ、Stavrides(2015)は以下のように説明しています。
あるいは、Bollier(2020)の簡潔な表現も参考になるかも知れません。
このようにコモンズは、メンバー、集団、あるいはその外側との「関係性」として理解することができます。この「関係性」の観点からコモンズを見るとき、コモンズは「A公園」のような、ある物理的で静的なものではないということが分かってくるのではないかと思います。
つまり、この観点においては、コモンズは、人々がそれを私たちのコモンズだと思うこと、あるいはそう思って行動しあうこと、交渉しあうことで、揺らぎながらなんとかそこに留まり続けるようなものなのです。
このようにしてコモンズを捉えるとき、次のBollier(2020)の表現も、すっと理解できるのではないでしょうか。
このような「動詞としてのコモンズ」という認識が立ち上がってくるなかで生み出されたのが、「コモニング Commoning 」(Linebaugh, 2008)というコンセプトです。
コモンズとコモニングを比較して述べるならば、コモンズが物理的なものであれ、象徴的に想像されるものであれ、なんらかの名前や枠組みがあるものを指しているのに対し、コモニングは、コモンズを生み出し続けようとする人々の絶え間ない実践、およびそこに内在する関係性のことを指すコンセプトだ、と言えるでしょう。
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少々補足的な説明を試みておきます。コモニングは「関係 relation 」あるいは「実践 practice 」であり、「生成的 generative 」、「関係的 relational 」であり、また「継続的な交渉 negotiation 」を必要とするものです。
これを考えるためには、身近な視点から、友達関係について考えてみるとわかりやすいように思われます。
ある友達関係は、特定の場所を持つようなものではありません(部室や秘密基地のようなものはさておき)。あるチャットグループがあったとして、そこに誰も投稿をしなくなってしまえば、そのチャットグループはもはや何の意味もなさないわけです。この例でいえば、コモニングとは、そこに投稿する実践を続けること、コミュニケーションを通じて関係性を維持することを要請します―その意味で、コモニングは関係性的で、実践的なものなのです。
また、友達関係は、事前に規定しておけるものではありません。大きなチャットグループがあれば、その中から仲良しの3人組が、3人同士のチャットグループを作ることもあるでしょう。あるいは大げんかをして、誰かがチャットグループを抜けてしまうこともあるでしょう。予期しない出来事が友達関係のなかから生成されますし、またそこでは、例えばコメントを返すとか、いいね!を押すとか、その場を維持させるための継続的な交渉もまた必要とされるのです。
つまり、コモンズは勝手に存在するのではないのです(ハーディンが描いたような「そこに既にあった共同放牧地としてのコモンズ」と比べると、その違いは明らかです)。コモニングという語は、コモンズを取り巻く人々に対して、必然的に、主体的に「かかわってゆくこと」を要請しているコンセプトだと言えるでしょう。
コモンズが所有論や統治論といった抽象的な議論も含めて広く議論の対象としてきたのに対し、コモニングの議論を俯瞰してみると、具体的な事例や現場に根ざした議論が展開されています(もちろん、コモニングの語が生まれる前から、コモンズの語を使いながら、現場に即した議論は当然なされてきたわけですが)。アカデミックな視点から見ると、コモニングはコモンズが包摂する視点に対して、その場やコミュニティのなかで営まれる実践や関係に、特に焦点をあてるために使用されている語だと言うことができそうです。
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補足的な話になりますが、これはまたTim Ingold(2017)が「メイキング」で、応答 correspondence という言葉を用いながら説いた、私たちは(世界は)、相互関係の生成の流れなのだ、という考えにも通底しています。
これは逆の視点から見れば、抽象的な概念が拡張するなかで、具体的な社会の形態を捉えることが難しかった教育やデザインの文脈に(例えば、「相互関係の生成の流れ」であるようなプロダクトとはなにかと問われると、即座に答えるのは難しいでしょう)、コモニングはその具体的な形を提案していると言うことももしかしたらできるのかもしれません。
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このようなコモニングの位置付けゆえに、学問領域としてコモンズとコモニングを見てみると、そこには顕著な差があると言えそうです。
コモンズに関する言説は、ある空間やシンボルを既にそこにあるものとして捉えつつ、その統治はどう可能か、所有のあり方はどう変わるか、そのことは社会にどのような意味を与えるか、ということまでを射程に入れた、幅広い議論が展開されます。
その一方で、新たに発展しつつあるコモニングの研究はその「実践と関係」が焦点です。つまり、実際のコモニングのなかで何が起きているのか、どのように所有や統治がなされているか、どのような権力関係が発生し、どのような複雑性を備えているのか―といったことが中心に議論されています。
II コモンズ/コモニングの事例と特徴
さて、ここからは、コモンズ/コモニングの3つのケーススタディを通じて、コモンズ/コモニングはどのような特徴を持つのか、どう実践・変化していくのか、なにをなしうるのか(投げかけうるのか)について、確認してみます。
II-1. ギリシャから見る、コモニングの4つの性質
Stavrides(2015)はギリシャでの事例、例えばアテネのナヴァリヌー公園 Navarinou Park (近隣住民が主導し、駐車場を広場と公園に変えた空間)などの事例を通じて、コモニングは3つ(4つ)の性質を持つ(べきである)と主張しました。
(Stavridesはターナーを引きながら、オキュパイ運動などの事例を通じて、コモニングが持つリミナルな性質―境界 threshold を超えることで、自分たちを意味づけ直し続けること―の意義を語っていますが、本記事では省略します)
コモニングが持つ4つの性質をそれぞれ見てみましょう。
ひとつめは「① 比較能力 Comparability 」です。比較能力とは、「違いが出会うことを促し、相互に自分自身をさらけ出し、相互認識の根拠を作り出すこと」(p.14)とあります。
私たちは、油断すると「無邪気な自明 innocent obviousness」によって、役割を簡単に再生産してしまいます。例えば、参加者のひとりが大工なら、その人には肉体労働をお願いしよう。大学教授がいるなら、行政との折衝を担当してもらおう……などなど。しかしそのような"分類"は、あくまでそのコモンズの「外部」での役割にすぎないはずで、コモンズは、自分たち自身の差異を開きあい、認識し、違いをわかりあう空間なのだとStavridesは言うのです。
Stavridesがある建築家の声を引いて述べたとおり、「参加した人たちは、通常の立場や職業から外れて自分を位置づけ直さなければならないと感じて」いました。すなわちコモンズは、その境界 threshold を超えることを通じて、これまでの肩書のようなものが一旦解体される場なのです。
続いてコモンズにおける「② 翻訳能力 Translatability 」は、「見解の違い、行動の違い、主観の違いを翻訳するための機会とツールを提供する」という性質です。簡単にいえば、コモンズは、違いを丁寧に交渉していく空間だ、ということです。
ナヴァリヌー公園の例では、公立小学校の子どもたちが活動に参加したことがあったといいます。コモニングの旧来の参加者は、その活動を「いい社会参加/広報になる」と捉えるかもしれません。しかし、ここで翻訳能力について語るすならば、私たちは、子どもたち自身の視点にたって、"子どもたち自身"が何を求め、何を表現しているのかを、どのように"翻訳"することができるでしょうか。そのような問いが投げかけられ、交渉が行われる空間が、コモンズの特徴なのです。
最後の性質は「③ 権力のシェア」で、これは権力の蓄積を防いだり阻止したりすることを意味します。ここでは、直接民主主義や、徹底的な議論を経て得られたコンセンサスに基づいた決定などが紹介されています。
また、おそらく、と前置きしつつ、Stavridesは「④ 贈与」という性質の可能性を示唆しています。自己や集団"のため"という計算を超えて、一体感や連帯感を示唆するギフトがありえるのではないかと言うのです。
最後に改めて、Stavridesが示した、コモニングが持つ3つ(4つ)の性質を示しておきます。
II-2. 協同組合によるコミュニティ運営とその複雑性
さて、続いてNoterman(2016)は、アメリカ・ニューハンプシャー州の「パイングローブ」と呼ばれる場所でのコモニングを紹介しました。ここでNotermanは、実際のコモニングのなかに起きている複雑性を捉えようとしています。
Notermanが取り上げているのは、プレハブ住宅(manufactured housing)のコミュニティが、立ち退きの危機に際して協同組合 cooperative を立ち上げて抵抗した事例です。(この事例は、日本の町内会やマンション組合の事例をみているようでなかなか心苦しいものがあります)
1993年、パイングローブの住民たちは、以前のオーナーによってコミュニティが売りに出されるのに際し、協同組合 cooperative を結成し、物件群―72戸の住宅用地、道路や畑、コミュニティホールを含む―を集団で購入しました。売りに出されてしまえば、家賃があがったり、立ち退きを強いられてしまったりする可能性が高い。そうであるならば、私たち自身で購入し、私たちで運営していこう、と彼らは決めたのです。
しかし、ここで生じたのが難しさのひとつが、住民(組合員)が旧来の概念を維持してしまうというものでした。
例えば、住民は「家賃 rent を支払う」という言い方を維持しました。この言葉は、いわば家を「借り rent 」ていること意味する言葉であるはずです。しかし、住民は彼ら自身で物件を購入したのですから、彼らはコミュニティを保有する協同組合の「組合員」であり、みんなでコミュニティを「保有」している。つまり、彼らが払っているのは、本来「返済」や「住宅税」にあたるもののはずです。しかしながらこのような「rent」などの言葉の維持は、無意識に住民のなかに「私たちは共同所有者ではなく、"借り"ている住民なのだ」という意識を架構してしまいます。
本来、協同組合は、誰もがオーナーとして、主体的に場に参画できるコンセプトなのだ、とロマンチックに捉えられがちです。しかしながら実体は、その組合のなかでも、やはり当事者意識を持つ人と、お客様(貸借人)としての意識を持つ人のあいだに大きな溝ができてしまうことを、Notermanは明らかにしたのです。
これに関連して、Notermanは興味深いエピソードを紹介しています。
例えば、「協同組合を法的措置で脅そうとした組合員を、"協同組合を訴えるのは自分を訴えるのと同じなんだ!"と説得した」とか。「コミュニティホールに全身鏡をかけて、"あなたの大家さんに会いましょう!"というサインを掲げた」とか(協同組合において、大家さんはあなた自身だから)。
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さらにNotermanはコモニングの内実に目を向け、この実践で起きている2つの種類のコモニング―「不均等コモニング uneven commoning」と「差異コモニング differential commoning」を説明しました。
まずは、不均等コモニングに目を向けてみましょう。
78歳の住人アン(地域のなかでは「water lady」と呼ばれているそう)は、16年にわたり、コミュニティの水の管理をしてきたといいます。アンは現在、コミュニティの70以上の浄化槽の位置を知っている唯一の組合員だそう。しかしながら最近、健康上の理由でアンナは定期的な管理に参加できなくなってきました。
このような実践の中で培われた情報(tacit/sticky knowledge)は、知識として簡単に移転できるものではなく、ここでは水の管理にまつわって、不均等な参加が、コモンズの運営・管理を脅かすということが見て取れます。
このことに限らず、当然想像できるように、協同組合の運営にかかわる労働は、数人の組合員に集中している状況です。協同組合における参加は、理事会から「頭を下げてお願い」するべきものではないはずであり、この意味で、このような事例はコモニングの持続可能性に疑問を投げかけていると言えます。
続いて、差異コモニングについて述べます。
ここでは、例えばコミュニティホールの建設に際して、これまで全く活動に参加してこなかったメンバーが、建材の入手や実際の仕事などをボランティアで提供してくれたことが記述されています。他にも、ベスが生協に遊び場を設置するように働きかけたり、ケイトはコミュニティホールでの、子どもたちへのプログラムに取り組んできたと言います。
ここでNotermanが述べようとしているのは、例えば場の運営管理といった、ある特定のアクションのみならず、コモニングにおいてはそれぞれの参加者が、それぞれの関心や時間、能力を持ち寄ることができるのだ、そういうことが起きるのだ、ということです。
コモンズにおいては、以下のような「差異コモニング differential commoning 」が起きる、とNotermanは指摘しています。
いわばNotermanは、コモニングは硬直的な目的のようなものがあるのでなく、多様な関わり方の余白を広げていくことが重要だと示そうとしているのです。
このケーススタディを簡潔に要約することにはNotermanは消極的ですが、これらを総括し、3つのヒントを投げかけています。
II-3. ダブリンのコモニングから、所有・生産・組織を考える
第二章の最後のケーススタディとして、ダブリンでのコモニングについての調査を続けてきたBresnihan and Byrne(2015)の事例を確認し、実際の事例から所有・生産・統治の可能性を考えてみたいと思います。
彼らは、ダブリンでの都市の「囲い込み」から逃れて活動を行う、6つの独立スペースについて研究を行っています。
一つの事例として、Exchange Dublinを紹介しましょう。Exchange Dublinは、パブやクラブなどの多いエリアにある、あらゆる年齢層の人々に開かれた(主に利用者は18歳以下であるようですが)非営利のスペースです。スペースはボランティアによって週7日運営され、ソファやテーブルが点在する大きな部屋と、展示などに用いられる小さな部屋によって構成されています。スペースでは、写真展やポップアップレストラン、音楽やダンスのクラスなどが開催されているといいます。
上記のExchange Dublinをはじめ、彼らが研究した6つの事例をまとめて、BresnihanとByrneはコモニングの3つの特徴を明らかにしています。
まず所有 owning in commonについては、運営者らはダブリンの家賃が高いために、家賃を集団化 collectivise するという戦略をとっています。
しかし、それ以上に共同所有において興味深いのは、所有において以下のような点が重視されている点です。
そのわかりやすい例として、著者らが、イベントを開催するために初めてダブズランド Dubzland に訪れたときのエピソードを紹介してみましょう。
スペースは形式上は、誰かと誰かが賃貸契約を結んで使用されているものです。しかしながら、その実際的な意味では、「スペースは何よりもまず、そこに参加し、利用する人々に帰属」(p.44)するのです。
Commoningという言葉を広めたLinebaugh(2008)は、「所有権は財産権ではなく人間の行為に基づいている」(p.45)という言葉を残しており、このダブリンの事例は、「所有」の別のあり方を示唆していると言えます。
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続いて、生産 Producing in Common については、コモンズには「見えない仕事」がたくさんあるといいます(この意味において、コモニングはケアの復権でもある、とBollier(2020)は述べています)。
つまり既に前の事例でも「差異コモニング differential commoning」として紹介していますが、ここでもコモニングは、参加者が空間を多様な形で、重複して、あるいは全く予期しない形で利用していることが指摘されています。
ここでは著者らは、空間は一般的に「単一使用 mono-use」されるのに対し、コモニングは空間の可能性をひらいていることを指摘します。つまり、「可能性の多重化 multiplication of potential」が起きているのです。
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最後に組織化 Organising in Common の側面では、ある参加者がこんな言葉を残しています。
この言葉は示唆的ですが、これはまた同時に、コモニングは不可避的に「面倒である」こと示してもいます。つまり、ルールと責任のバランスをとっていくために、私たちは日常的な交渉を必要とするものです。
ここでは、コモニングが過剰組織化 over-institutionalization になってしまう可能性が指摘されており、筋トレをするのと同じように、私たちは「社会的な体を鍛えなければならない」と、Bresnihan and Byrneは述べています。
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ここまで、実際の当事者によるコモニングと、そこから見えるコモニングの特徴や意義について、3つの事例を通じて紹介してきました。これらの例は、私たちの都市の住まい方、使い方が大きく変容する可能性を示唆しています―コモニングを通じて、人々は都市に「裂け目 crack (Tonkis, 2013)」を生み出し、所有・生産・組織化する方法を再構築しているのです。また同時にこれらの実践は、既存の機能主義的な空間の利用に疑問を投げかけ、多様な実践が輻輳的に重なり合う可能性を開いているといえます。
III コモニングのために、当事者ではない人々には何が可能か?
第II章では当事者によるコモニングの実践を取り上げました。しかしながらコモニングの概念は同時に、これまで公と私、全体と個人、デザイナー/都市計画家/建築家とユーザー、といったような二項対立を考えるとき、この「前者の側」、すなわち政府や都市計画家、デザイナーらといった人々の態度や実践にも疑問を投げかけているはずです。しかし、この「どうコモニングに介入していけるか」という議論は、まだコモニングにまつわる議論のなかでは大きく注目されていないようです。
本章では、都市計画家やデザイナーのような「当事者外の人々」が、どのようにコモニングに関わっていけるか、を考えるための事例を紹介したいと思います。しかしその下地として、デザインの文脈で議論されている、新たな潮流について簡単に触れておきましょう。
III-1. デザインの新たな潮流としてのDesign by Ourselves
人類学者のArturo Escoar(2018)は、デザインと人類学の接近を決定づけた著「Designs for the Pluriverse」の中で、デザインの「存在論的転回 Ontological Turn」を提案しています。それは端的に表現すると「私たちが世界をデザインし、世界が私たちをデザインし返す "we design our world, and our world designs us back"」(p.4)という捉え方のことで、二元論や西洋中心的な見方―「One-World World」を拒否し、Pluriverse、つまり「多くの世界がフィットする世界 “a world where many worlds fit”」(p.xvi)を提案しています。極めて狭い例に寄せれば、例えばデザインの文脈で言えば、「デザイナーはユーザーの世界の"外側"から、何かを届け、その世界を変えることができる」という考え方を批判しているものだと言えるでしょう。
このような考え方は、デザインのなかでは「CoDesign」という領域で広く議論されてきました。上平崇仁(2020)「コ・デザイン」より、デザインの3つの側面―「Design for User ユーザーのためのデザイン」「Design with People 人とのデザイン」「Design by Ourselves 自分自身によるデザイン」という分類を示した図(p.103)を以下に引用します。
既存のデザインは、製品やサービスを設計し、ユーザーに届ける―いわば、ユーザーを単に「使う use」人としてみなしてきたと言えます。
これが決して悪いわけではありませんが、このような考え方に対して、人々をデザインパートナーとして巻き込む、あるいは人々自身がデザインできるようにしていく、という考えを、デザインの実践の中に取り込み始めているデザイナーが増えてきています。このようなデザインのありかたが「CoDesign」と呼ばれるものです。
この考え方を考慮すると、コモニングという概念は、アーバンデザイナーや政府の新たな実践の可能性―CoDesignとしての関わり方の可能性をひらいていると言えるのではないでしょうか。
Ezio Manziniは、このCoDesignのうち、特に「Design by Ourselves」の視点を発展させながら、Design for Social Innovationという領域を世界的に確立してきたイタリアのデザイン研究者です。彼は「日々の政治」(2020)のなかで、アマルティア・センのCapability Approach(邦訳では「潜在能力アプローチ」)に触れながら、「デザイン・ケイパビリティ Design Capability」という言葉を提唱しています。この言葉は、人々は、誰もがデザイン能力を持っているのだ、誰もがデザイナーなのだ、ということを表現しようとした言葉です。
Ezio Manziniは「Design, When Everybody Designs」(2015)のなかで、"専門的な"デザイナーの役割について広く論じていますが、彼によれば、デザイナーの役割とはこの、人々がDesign Capabilityを発揮する可能性を高めることだ、と述べています。
つまりコモニングを念頭に置くとき、彼は、当事者ではない外部の人々(デザイナー)は、人々が自発的にコモニングを始めてゆくためのエンパワメンターになることができると述べているのです。
しかし、そのようなデザインとは、具体的にどのようなものなのでしょうか。都市計画者、建築家、あるいはデザイナーは、コモニングを育むために、どのように行動すべきでしょうか。本章では、先に述べた「Design with People」と「Design by Ourselves」という分類に対応させつつ、大きく2つの方向性を示したいと思います。
III-2. Design-in-Useとしてのデザイン介入: Ageing Together
ひとつめの方向性は、コモニングをする人々とともに取り組むあり方(Design with People)としてのデザインです。
ここでは、そのためのコンセプトとして「Design-in-Use」という言葉を紹介しましょう(日本語に訳すと「使用中デザイン」なのでしょうが、あまりクールではないので、このままDesign-in-Useとして使うことにします)。
デザイナーや建築家といった存在は、ある期限、ある一定期間で、プロジェクトを「終える」傾向があります。それは、人々とともに取り組まれるCoDesignプロジェクトにおいても同じことです(Sanders & Stappers, 2008)。この状況を、フィンランドのCoDesign研究の第一人者であるAndrea BoteroおよびSampsa Hyysalo(2013)はこのように表現しています。
同様にTim Ingold(2013)は、デザインは本来、私たちが終わったと思い込んだ後も、互いに応答 correspond しあいながら生成しつづけるプロセスなのだということを、繰り返し指摘しています。その観点から言えば、デザインはプロダクトやサービスができあがったら終わりなのではなく、むしろユーザーの手に渡ったあと、"使われていくプロセス"に、デザイナーが巻き込まれていくことも可能なのではないでしょうか?
このような発想から生まれたのが「Design-in-Use」という概念であり、これを礎に、デザイナー自身が環境に飛び込んでいきながら、長い時間をかけて耕していくような実践のあり方が各地で育まれてきました。このような関わり方は、コモニングが潜在的に持つ性質である「差異コモニング Differential Commoning」や、そこから育まれる予期せぬ広がりに対して、うまく介入していけるデザインの可能性を示唆していると言えるでしょう。
ここではこのような観点から、BoteroとSampsaによるプロジェクトを簡単に紹介したいと思います。
BoteroとSampsa (2013) は、9年間と非常に長期にわたる、アクティブシニア協会の高齢者と実施したCoDesignプロジェクトを「ともに歳を重ねる Aging Together」と名付けて紹介しています。この事例からは、コモニングに介入していく外部者としでのデザイナーが、どのようにコモンズに関わっていけばよいかが見えてきます。
ここで起きたことを簡単に紹介してみましょう。
例えば高齢者らとの初期のワークショップでは、訪れた人が家の呼び鈴を鳴らしたときに、ビデオ通話で出迎える「ポーター」の役割を、当番制で担当しよう!というアイディアが出たそうです(おそらく、なんか鳴ってるけど、誰がとるの〜、と問題になっていたのでしょう)。
当初の想定を超えて、このポーターはいつしか訪問者だけでなく、住民からのヘルプを求める電話を受け取る役割も担うようになっていきました。その後、ビデオ通話は面倒だからと、代わりに携帯電話を購入。それを住人内で交代制で回していくことで、ヘルプ体制が実現したそう。この携帯の電話番号は数年にわたって、玄関の呼び鈴横に掲示されていたといいます。
このように、このプロジェクトは実際にはICTツール開発を目指したものでしたが、その内容は、これまで専門家とユーザーを二項対立的に捉え、ゴールを設定しながらその開発に向けて線形に取り組んできた専門家らにとっては、示唆に富むものだと言えるでしょう。
BoteroとHyysaloは、この9年の実践から得られた、外部から関わる介入者が検討するべきデザイン戦略を13個にまとめていますが(いえ、ある意味では彼らはわざとまとめていないのですが)、そのなかから、最初の3つのポイントを引用してみましょう。
◯ DS1: start with social practices
社会的実践から始めること
(*DSはデザイン戦略 design strategy の略です)
これは、外部から、こうすべきだという方向性を押し付けるのではなく、そのコモニングのなかにすでに育まれているものから始めるべきだ、と私たちを戒めるものだと言えます。
◯ DS2: the key role played by exploring the constituency
構成員の探索が果たす役割への着目
専門家は、事前に"座組み"を固定的に定義してしまいがちです。例えば、「デザイナーが発想をし、デザインをするのだ」「当事者(=この例では高齢者)は、現場の情報をくれて、またデザインが良いかどうかを判断する人だ」というように。そうではなく、それぞれの人々が探索しながら生まれていくことに、うまく適応していこうと指摘しているのです。
◯ DS3: begin with small but relevant ‘access design’
小さくても関連のある「アクセスデザイン」から始める
ここでは、外部から関わってきた人がなにかを始めるときは、その「ひとつめ」が、参加者との関係構築に大きな役割を果たす、と言おうとしています。その意味で、ひとつめは何にすべきか?それが、小さくても、誰の目にもわかりやすい、なんらかの「アクセス」をよくするデザインなのではないか、と彼らは示唆しています(例えば、"ドアベル"のような)。
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彼らは9年もの時間をかけて、どうコモンズのなかに入り込んでいき、デザイン的な介入がどのように機能し、しなかったかを丁寧に検討してきたと言えます。その中でも興味深い内容だと私が感じたもののひとつが、DS9で述べられている、参加する人々に、試す時間を残すという内容です。
デザインプロジェクトは一般に、ある目的に向かって線形に進むために、そのあいだに「とりあえず一旦使ってみよう」「あ、なんかこんな使い方もありそうだねえ」「じゃあもう少し調整していこうか」というような、"余白"はそう多くありません。
しかしコモニングでは、より日常的な、かつ差異的で多様なコモニングが行われていくことは既に述べました。これを考慮すれば、生み出したプロトタイプは、ある一度のワークショップなどで評価するのではなく、使う人々が実際の現場で使いながら、「その技術の自分なりの使い方を見つけ、なにかを試すことを可能にする "allows people to find their own ways to use the technology and to try things out on their own" (p.46)」ことが、非常に重要になってくるはずです。
これが無意識に、長い長い関わりあいを―"ともに年を重ねること Ageing Together"を―指向しているのは、コモニングに関わる以上、当然のことなのかもしれません。
III-3. Empowermentとしてのデザイン介入: The City as a Commons
最後のケーススタディとして、Design by Ourselves、すなわちコモニングが生まれていくような環境をデザインする、イタリア・ボローニャ市におけるエンパワメントのアプローチについて紹介します。
Foster and Iaione(2016)らは論文「コモンズとしての都市 The City as a Commons」の中で、前述のオストロムが発展させたコモンズの統治理論を、実際の都市に適用する方法を詳細に検討しています。ここでは、都市そのものをコモンズとして捉えながら、「都市(の行政)」が、コモンズが生まれるような制度を整えていくべきだ、ということを主張しています。この論文は、コモンズを通じて、多中心的な都市統治の手法の導入を検討するなど興味深いところが多いのですが、そのなかから実際のコモニングに関連する部分をピックアップし、少しだけ内容を紹介しましょう。
彼らはまず、都市をコモンズとして捉えるために、コモンズの「規範的概念 the normative concept 」としての側面を説明しています。第一章で、コモンズ(コモニング)とは、人々の関係や実践である、と説明してきました。それに対しFosterとIaioneは、そもそも都市は「そこに住むすべての人に属する共有資源である」(p.288)という意味でコモンズなのだ、と主張しているのです。
加えて、彼らは「なぜ都市はコモンズの利用を広めていかなければならないか」という問いにも積極的に答えようとします。
彼らは、簡単にいえば、私的・公的に独占される資源へのアクセスを共同体へと開放することは、そのままにしておくよりも、社会的価値や効用が高いと主張しているのです。例えば空き家に関して言えば、このようです。
さて、彼らが試みたのは、「都市を、都市全体の協働的な意思決定構造のファシリテーターまたはイネーブラとして再び位置づける」ことでした(イネーブラ enablerとは、「enable 〜を可能にさせる」という動詞をもとにした言葉で、「誰かが何かをすることを、可能にさせる役割」ということです)。
これを実現するために、彼らは、3つの民主主義的なデザイン原則を設定しています。これらはそれぞれ、「水平的補完性 horizontal subsidiarity」、「協調性 collaboration 」、「多中心性 polycentrism」です。
まず水平的補完性については、EUなどで中央集権化を防ぐために採用されている、自治はなるべく小さな単位で行い、対応しきれない部分をより大きな枠組みで対応しようとする、補完性の原理 subsidiarity を発展させたものです。彼らはこの語を2001年に改正されたイタリア憲法から取り入れたと述べていますが、そのなかでは、各行政期間、すなわち市町村、州、国家は、階層的関係ではなく「対等」、つまり水平的関係であると規定しています。つまり水平的補完性とは、「市民が一般的な利益のために行動し、単なる都市の利用者ではなく、都市の創造者となる」(p.329)ことを意図したものです。それを具現化したのが、イタリアのボローニャ市をはじめ、イタリア5都市で展開された「CO-Bologna」プロジェクトです。
続いて協調性(コラボレーション)は、未組織の市民(イノベーターやアクティブな市民など)、公的機関、企業、市民社会組織、知識機関(大学など)の5者がパートナーシップを組むことを想定しています。このパートナーシップは、3つの主要な目的を持っているとされています。すなわち、以下のようなものです。
興味深いのは、「コラボレーションをロマンティックに捉えてはいけない」(p.331)という指摘です。彼らは、単に地方に権限を委譲して満足することを強く戒めています。すなわち、協働を可能にするツールや資源を提供すること、およびより幅広い―特に、排除される可能性が最も高い市民を含めた―都市住民が、資源にアクセスすることを可能にするアプローチが必要だと彼らは述べているのです。
最後の原則が多中心性です。多中心性システムのもとでは、すべてのアクターは、「意思決定の自律的な中心地 autonomous center of decision」(p.334)になります。国/政府の役割は、ここでは必要なツールを提供し、ネットワークをつなぎ、クリエイティブ・クラスならぬ「コラボラティブ・クラス」がイノベーションの境界を広げることを支援することです。
では改めて、ボローニャで行われたプロジェクトの内容を見てみましょう。上述した内容を基盤に、イタリアのボローニャ市では、都市を「コモンズとしての都市 The City as a Commons」として捉え、co-cityプロトコルに基づく「CO-Bolognaプロジェクト」を進めてきました。ここでボローニャ市が行ったこととは要するに、協定さえ結べば、地域の人々自身が、都市のコモンズ―地域の緑地、広場、廃屋なども含めて―を、自由に使うことができる制度を作ったということです。
その基盤となるのが、ボローニャ市が採択したのが「都市コモンズのための市民協働に係るボローニャ規定 the Bologna Regulation on Civic Collaboration for the Urban Commons」です。この採択の主な目的は、ボローニャ市と、地域住民やNGOなどとの間で「市内全域の都市コモンズのケアと再生」を行える「コラボレーション協定 Pacts of Collaboration」を締結することにあります。
その結果、導入後今までの間に、再利用素材を用いてブックステーションを設置するプロジェクト、庭園に赤いベンチを設置・維持管理するプロジェクト、空間に花壇や椅子、テーブルを設置して人々を迎え入れるプロジェクトなど、少なくとも400以上の協定が結ばれ、市民の手で実施されてきました(http://partecipa.comune.bologna.it/)。
ここで、もう一つ非常に重要なことは、市の側が、市民の相談を受け入れる体制を構築していることです。行政の役割は、単にアーバンコモンズを市民にひらくことに留まりません。彼らが実装した「Collaborare è Bologna」という政策では、III-2で述べたCoDesignを採用しつつ、コミュニティが一体何をしたいのかを理解し、どのようなガバナンスを導入すべきかを行政と市が互いに検討しあう「近隣協働プランニングプロセス neighborhood collaborative planning process」(p.348)を導入しているのです。
ボローニャ市の事例は、使える環境を生み出すエンパワメントと、それを支えるCoDesignの体制とを同時に実装することで、市民から立ち上がるコモニングを強力に促進していくことに成功した、世界的に見ても非常に重要な事例であると言えるでしょう。
第三章ではここまで、コモニングに対して「外側から介入する」という視点で、デザインの新たな潮流を定置したのち、2つのケーススタディを紹介してきました。上平(2020)が提案したように、デザイナーらはファシリテーターやエンパワメンターの役割を果たすことができるのであり、コモニングにおける「Design with People」や「Design by Ourselves」の可能性は、大きく開かれているといえます。
IV 結論および限界
この記事では、コモニング Commoning という語について、その概要、歴史、重要性、および実際の事例について紹介してきました。
第一章では、コモンズとは、私と公の間の二項対立を揺さぶりつつ、自分たちのコミュニティに対する自治を取り戻そうとする取り組みであることを述べました。また、コモンズはそれを維持・統治しようとする実践と関係であるという認識から「コモニング」という概念が誕生し、コモニングとは、コモンズを生み出し続けようとする人々の絶え間ない実践、およびそこに内在する関係性のことだ、ということを説明しました。
第二章では、実際の都市空間におけるコモニングの事例を3つ取り上げ、人々がコモニングを通じて、空間の多様な使い方を引き出していることを示しました。またコモニングの実践は、それぞれの複雑性のなかで、継続的に交渉されながら営まれていることを示すとともに、現場で見られる所有・生産・組織のあり方を示しました。
第三章では、コモニングに外部から関わる、行政やデザイナー、都市計画家といった専門家らに求められる、新たな振る舞いについて述べました。具体的には、専門家はこれから、人々がコモニングを起こす可能性を高めるエンパワメンターあるいはイネーブラとして、またその実際のコモニングのプロセスにともに携わりながら、コモニングを発展させるファシリテーターあるいはCoDesignerとして、コモニングと携わっていけるのだと主張しました。
本稿では深堀りしませんでしたが、現状のコモニングの議論に提示されている、2つの批判について指摘しておきます。
フェミニズム理論を基盤に、権力構造の視点からコモニングを捉えるナイチンゲール(2019)は、「コモニングの取り組みは必然的に『外部』を生み出す」(p.25)とし、排除へのケアを考慮することで、インクルージョンを達成していく必要があると論じています。例えば、コモニングによって公園からホームレスが排除されてしまうならば、それは当然、ジェントリフィケーションと同じ問題を生み出すでしょう。このような権力構造への着目は、必然的にこれからのコモニングの実践において必要になるでしょう。
さらに、II-3で紹介したBresnihan and Byrne (2015)は、コモニングは必ずしも、実現可能な代替案を提案できていない、という指摘をしています。
例えば彼らの研究した事例では、高い家賃を払う必要があるスペースでは、スペースを個人貸しして家賃などを確保しているケースがあります。しかしそれはそのまま、そのスペースが排他的で資本主義的になっていくことと同じ意味を持っています。さらに、廃屋を占拠しているコモンズが目立ってしまうと、当局から追い出されてしまう、というような可能性もあります。
その意味で、現実のコモニングの実践は、「(人々から家賃を搾取し、行政から「透明」になろうとする点で)都市の他の空間のようになるか、『地下』に潜るか(暗黙のうちに都市の周縁としての位置を受け入れること)」(p.51)という、二つの圧力に常にさらされ続けているのです。
最後に、本稿の課題を2点指摘しておきます。
本稿はコモニング、すなわち実践に重きを置いて整理していることから、「コモンズ」にまつわる、法理論や統治論といった既存の議論を反映できていません。
また本稿では扱いませんでしたが、近年は、どのようにコモニングの運動が拡大し、社会的により大きなインパクトを与えることができるか、という議論も広がっています。例えばVarvarousis(2020)は、コモンズの"あいだ"で育まれる「境界コモニング Boundary Commoning」を通じて、より社会に大きなインパクトを与えられる可能性について述べています。この領域については、コモニングという語こそ用いていませんが、Ezio Manzini(2015)が「スケールアップ」「スケールアウト」「スケールディープ」という拡大戦略について検討しています。
これまでの議論を見て分かる通り、コモニングに関する議論は、既存の所有や統治や生産の当たり前を疑い、新たな方向性を指し示す、極めて興味深い潮流を先導しています。私たちはコモニングを通じて、Bollierのいうような「経済のオルタナティブ」の可能性を開きつつあります。
コモニングを通じて、私たちは「より自由に動き、呼吸することができる」(Bresnihan & Byrne, 2015, p.48)のです。
引用
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