イヴァン・イリイチ「コンヴィヴィアリティのための道具」読了直後のまとめ

イヴァン・イリイチ「コンヴィヴィアリティのための道具」読了。やっと読めた。

イヴァン・イリイチは脱産業/脱官僚主義論として認識されることの多い著者だと思うけれど(もちろんそれは正しいのだけど)、Convivialityという思想は、極めて人々に対する希望の詰まった提案だと思った。

イリイチは思想家であると同時に、すごく実務的な人だ。そこにシビれる憧れる。

「私が提供したいのは行動のための指針であって、空想物語(ファンタジー)ではない。」

シビれる。

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絶対に参照しておきたい一文がこちら。

「自立共生的道具(Tools for Conviviality)とは、それを用いる各人に、おのれの想像力の結果として環境をゆたかなものにする最大の機会を与える道具のことである」

イリイチのいう道具とは、具体的なモノでもあるし、大きくは社会制度システムのことでもある。私たち自身が工夫をこめて作ってきたその全てを「道具」と言っている。例えば、ホウキのようなものもそうだし、学校制度、みたいなものも道具だ、とイリイチは言っています。

そういう、いろいろなモノやシステムが「自立共生的」だったらいいね、というのがイリイチの主張です。
つまり、ホウキを使ったり、学校を使ったりすることを通じて、その単なる消費者や操作者になってしまうのではなく、自分の想像力が広がり、何か創造的な行為を引きだされてしまうような、そんな"道具(モノやシステム)"が重要なのではないか、と彼は言っているわけです。

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イリイチの文脈は、確かにセンと強烈に軌を一にしていると僕は感じています。てか、イリイチの使うConvivialityと、センの使うCapabilityという言葉はほぼ同義だと言っても過言ではないように思われます。

アマルティア・センは潜在能力=ケイパビリティの概念を提出し、人々をある種の労働する機械から「なにかができる主体なのだ」ということを見出しました(1973年「不平等の再検討」)。センが取り組んだのは、なんらかの基本財や最低収益などで不平等をなんとかしようとするのではなく、「(私たちは)何ができていれば、幸せだと言えるのか」という具体的なDOを定義し、それをもとに制度を作っていこうよ、という提案です。

一方、イリイチが本著で(なんと、同年1973年に出版されているのですね)取り組んだことは、官僚主義社会への強烈な憤りや嘆きを原点に、センのCapabilityを実現する方法を、「道具」という言葉で具体的に提案するということだったのではないでしょうか。

イリイチは極めて実務的な態度をとるからこそ、その論もデザイン的だなと思うのです。そこで(制度や言論ではなく)「道具」というなんらかの具体的な媒介物をデザインすることで、人々の想像力や創造性を引き出していこう、という希望を主張したのが、この一冊だったのではないでしょうか。

ちなみに、これを正に現代のデザインの言葉で翻訳したのがEzio Manzini「日々の政治」だといって全く過言ではないです。イリイチの著作のなかにも、「主要な諸制度の機能を根本的に逆倒する」「根底的な革命」というワードが出てきていて、これもまさにEzio Manziniのいう「非連続な未来」と足並みを揃えるものです。

その意味では、今読んでも全く色褪せない本著の太さを感じる。

また、コンヴィヴィアリティや道具というワードについて、僕なりに解釈したものをまとめてあげようと思います。

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