見出し画像

「まちづくりに興味がある」人々に向けた、いくつかのこと。

「まちづくりに興味がある」という言葉を聞くと、どうやったらその言葉を揺らすことができるかなあ、とよく思う。

*

「まちづくりをしている」と言われる僕たち(少なくとも僕)は、「まちをつくっている」という表現はなかなか傲慢だなあと思っているので、自分で「まちづくりをやっています」と言うことはない(自分の仕事の説明が面倒なときはよく使いますが、笑)。

そういう「まちづくり」という言葉を揺さぶっていくことは、結構自分自身にとっても大事なプロセスだったので(大学のときは「まちづくりに興味がある」学生だった)、僕自身もまとまりがないままに、学生だったときの僕が知らなかったなにか、なんとなくこの5,6年で感じたなにかを書いてみる。

*

まちというものは人間生活の全てを内包している以上、「まちづくりをやりたい/やっている」という文章は表現としてほとんど成立していなくて、本当はまちづくりのうち「なにを」やっているの?/やりたいの?ということが本質的に重要だと思っている。

例えば、人に自己紹介するときに「人の幸せをつくる仕事をしています」っていう自己紹介をする人はいないわけで(いるかもしれない)、ところが「まちづくりの仕事をしています」はまかりとおってしまう。なんでなんだ。

「まち」を構成するうちの、「教育」なんです、「伝統産業」なんです、「コミュニティ」なんです、「福祉」なんです。いずれも抽象的に言えば全てまちづくりに属している。そのとき、あなたがやりたい「まちづくり」というのは、一体なんのことを指すのだろう?そして同時に、そこに一体なんの役割で関わっていくのだろう?

*

もう少し言うならばその意味で、物理的なまちに関わる建築/都市計画、あるいはコミュニティをつくるということだけが「まちづくり」ではないと思う。

僕が取り組んできた、福祉作業所との商品開発。発表した商品は、原価率を3割にしました。福祉作業所ってどうしても「福祉」の理念が先にあるがゆえ、民間企業の商売の方法を知らないことが多々あるのです。原価率7割とか、もっと高いケースも多く、他のお店に卸すことができない。福祉業界は売上があがらない、スケールしないというのですが、自社でしか販売しない(できない)のだから当たり前です。そういう福祉とビジネスの情報格差を埋めていくようなことができたらなと思っていて、値付けには少しだけこだわりました。

ちょっと遠回りしましたが、この仕事(「福祉作業所との商品開発」)は僕のなかでは「まちづくり」とまったくもって地続きです。全く同じように、ジェンダーマイノリティの権利を推進していくことも、僕のなかでは「まちづくり」の範疇です。しかしたぶん、一般的には「まちづくり」のくくりには入らない。これはいったい、何がどのように違うのだろうか?

*

まちづくりに興味がある、ということの漠然とした中身っていうのは「多様な人々が集うコミュニティスペース」みたいなことなんだろうけれども、そういう空間ってややもすると「"まちづくり"界隈とその周辺の(多様な)人々たちのコミュニティスペース」でしかなかったりする

それが、その当事者たちが好きにやっている仕事で、幸せそうであるならば全く問題ないというか、むしろとても素敵なことだと思うのです。が、こういうことを、地域おこし協力隊はじめ、行政のお金を使ってやっている人がたくさんいる。それでいいんだろうかとよく思う。

そうではない、家と会社を行き来することが暮らしの主になっている社会人、家と学校を行き来することが主な学生、のほうがよほどまちにとってはマジョリティであるはずで。こうした人々にとって「まちづくり」ってなんだろう、どうやって届けられるのだろう、一体、僕たちは「誰のことを幸せに」したいのだろう?とよく思ったりする。

*

和紙の工房をめぐりながら話をしていると、いろいろな話を聞かせてくれる。需要は右肩さがりであること。和紙産業はお土産物の包装紙やホテルの襖などが用途なので、コロナで観光産業が打撃を受けると、実は同じくらい打撃を受けるのだということ。なかなか大変だけど、でもなんとか次の世代に引き継いでいきたいと思っていること。

「このまま死ぬか、あがいて死ぬかしかない。それなら、僕はあがいて死にたいと思ってるんや」
「和紙は1500年の歴史があって、その先端のいまに、私がいる。私の職人としての命なんてたった40年くらいだと思うけど、この1500年、バトンを繋いできた人たちがいるわけでしょう。せめて次の世代にバトンをきちんと渡すことだけは、最低限の私の使命なのかなって思ってる」

例えば僕はこの人たちが好きで、この人たちのために「まちづくり」と言われる仕事をやっているのだろうと思う。そのとき「まちづくり」って、一体なにをすることなのだろう?

*

なんかそういうことを考えていると、「移住」ということ自体の足場がきっと揺らいでくるだろうなと思ってる。移住というのは本質的に、来てください!と言って来てもらうようなものではなく、そこに役割があるからやってくる、そこに好きな場所や人があるからやってくる、そういうことでしかないはずで、「移住を推進する」ということ自体が何かを本質的に見誤っている

いい仕事があれば勝手に移住してくるし、おもろいことやってる人たちがいれば勝手に移住してきます。そしてそうではないところで何をどう移住させようとしたってうまくいくはずがない。

移住を増やそうと思うなら、超イケてる仕事をしている会社を一個作ったほうがいい(経済的にも)。笑 その意味で、人口問題は行政の問題かもしれないが、その解決を提供するのは、本質的な意味で民間の経済的な問題だと僕は思っています。

その意味で先日、「まちづくり、とか言っている人々が"経済"を軽視しすぎている」というツイートをしてちょっと伸びた。僕もいま、経済の勉強をしています。

*

まちづくりというのは、まちに関わる以上、ある特定のまち、例えば「鯖江にいて、まちづくりをする」という視点と、東京のような大都市を中心にしながら、各地に行ってやる「まちづくり」というものと、また行政/政府側から、まちづくりをする人々を支える/後押しする制度をつくる「まちづくり」がある。このとき、僕たちのいう「まちづくり」は、一体どこに関わりたいという意味で言っているのだろう。きっとレイヤーによって、関わる人も、仕事の感覚も、きっと全く変わってくる。

全てが「まちづくり」であるとしたら、僕たちがリアリティやモチベーションや課題意識を持っているのはどこなのか。

そしてとても大事な話で、どのレイヤーから関わるにせよ、せめて現場の人、つまり仕事の先、制度の先にいる人の顔が見えている、知っている状態で仕事をしてほしい。

行政の人と話していると、現場の人たちに全く会わないまま、現状を知らないまま、「世の中はいまこうだから」という理由で政策策定に進んだりする。それがうまく機能するわけはなくて、そして策定している当事者自身も、本当に必要なのかどうかを考えようとしないままに進めてしまっていることがある。とか。

ある地方都市で大規模再開発に取り組んでいる東京の大企業の人々は、果たしてそのまちの人々の顔が見えているだろうか、そのまちの人々が本当に何を望んでいるのか、知っているだろうか?そこにおける「まちづくり」とは、一体誰のためのものなのだろうか?とか。(※福井の再開発の話をしているわけではなく、一般的な話です)


*

「まちづくり」に興味がある、という人は、早くどこか、自分のフィールドを見つけにいったほうがいいと思う。まちづくりに興味がある、と言ってもらえることは嬉しいけど、まちづくりという言葉を安易に使えるうちは、もしかしたら「まちづくりに興味がある」というフェーズでもないのかもしれない。

なんてことを、大学生時代の僕に届けたいなと思った森なのでした。まとめると、「鯖江に遊びにきてください」ですね、お待ちしてます。笑

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?