「未来の知覚」を考える

文化は、存在しない物を人に見させてしまうほど、知覚に影響を与えることができるだろうか。(p.108)

地理学の大著「トポフィリア 人間と環境」(イーフー・トゥアン著、小野有五・阿部一共訳)を読んでいる。

「トポフィリア」という言葉と、人間の環境に対する情緒的な捉え方が本書では重要な論旨である。けれど、この著全体が大きな「人間たちの環世界」を記した文化の冒険譚のような、わくわくする驚きと喜びに貫かれていて、私自身がどきどきしてしまう。

そこでまだ読み途中なのだけれど、新鮮な感覚を覚えているうちに、本書の「知覚」に関する記述から、「未来の知覚」について考えたことを共有したい。


エッガンとホピ族の対話

トポフィリアのp.110に、人類学者ドロシー・エッガンとホピ・インディアンの対話に関するエピソードがある。まずはこちらを読んでほしい。

ホピ族が言う。「目を閉じて、グランド・キャニオンのホピ・ハウスから何が見えるかを言ってごらん」。エガンは熱心に、谷壁のきらめく色彩や、消えたり現われたりしながら低いメサ[浸食から取り残された台地]を横切って谷壁のへりを曲がりくねって続いている小道や、そのほかについて描写する。
ホピ族はにっこり笑い、そして言う。「私も色のついた谷壁を見ている。そしてあなたが意味していることも、ちゃんとわかっている。しかしあなたの言葉は、間違っている」。彼にとっての小道は、横切ってもいないし、消えてもいない。小道は、足によって変化を受けるメサの、単なる一部なのである。彼は続ける。「小道は、見えなくなっても、まだそこにあるのだ。なぜなら私はそのすべてを見ることができるのだから。私の足は、小道の全体を歩いたことがあるからね。そしてもう一つの点だが、あなたは、グランド・キャニオンを記述した時、そこに行ったかね」。エガンは言う。「いいえ、もちろん行っていません」。それに対するホピ族の答えは次のようなものであった。「あなたの一部がそこにいた、あるいはそこの一部がここにあったのだよ」。それから満面に笑みをたたえて、「グランド・キャニオンのどこの部分よりも、あなたを動かすほうが簡単だがね」。


「正確な」知覚について

この対話から私がはた、と気づいたこと。まず前提として私たちは、いま、景色を目に捉えている。私もあなたも、このPC(あるいはスマートホン)と、それを含んだいくつかの要素からなる景色を正確に知覚していることでしょう(読み上げ機能を用いてこの記事を読んでくださっている方がいたら、ごめんなさい!)。

けれど、どうして私たちは、私たちがいま知覚しているこの風景を、当然に「正確だ」と考えているのでしょう?

視覚に頼った認識は、確かに客観的に見て、"いま見えているもの(視覚で捉えているもの)"を正確に捉えているかもしれません。ただ単純にその視覚的な正確さにおいて、「小道全体が見えている」ホピ族は不正確=より下等で、私たちの視覚のほうが正確=より高尚である…などと考えることは、容易いことではあります。

しかし、確かにホピ族は、なんらかの意味で確かに「小道全体を知覚」している。この「見えていないものが見えている」状態が正確でないというなら、彼らが知覚しているその「小道全体」は、なんだというのか。

ホピ族が見えている小道全体について思いをはせるとき、それは「未来の知覚」への貴重な道標を示してくれているのではないか。


認識としての視覚

そこで、ホピ族は、正確に「小道全体が見えている」という前提で、もう少しホピ族の知覚について考えてみる。「ホピ族が小道全体を見ている」というのは、想像にすぎないけれど、たぶん2つの理解の方向性がありえる。

1つめは、彼らの視覚が文化的に拡張された状態にある、という理解。つまり、「確かに彼らには小道全体が"視覚を用いて"見えているのだ」という理解。

もう1つの理解は、知覚を未分化に留めることによって、視覚と他の知覚とが曖昧に重なり合うような状況が達成されている、という理解。

…知覚は視覚だとか、味覚だとか、実際にはいくつかの感覚に分化している。けれど、その総体としての知覚(→認識)はそれらが混交した結果として起きているはずです。そう思えば、実際には知覚は「完全に分化している」と捉えることも可能だけれど、あるいは、はじめから知覚同士は干渉する、というような捉え方も可能なのかもしれない。

もう少し踏み込んでいえば、inputとしての知覚だけではなく、記憶や観念、感情によっても認識は揺さぶられるはずです。そこで、「知覚(input)としての視覚」ではなく、「認識としての視覚」(=結果としての視覚)として捉えたなら、ホピ族が"見た"景色の正確性は、より新しい色合いを持って迎え入れることができるのではないでしょうか。

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こうした(認識としての)視覚の拡張については、実は既に私たち自身が幾度となく体験してきたはずのことです。

例えば私たちと「おばけ」との関係は、それを考えるのには良い例示になるでしょう。

私たちが「おばけ」に関する観念を持って真っ暗闇を歩く時、そこになにかがいるような気がする、というなら、そこに何もいなくても、それはもしかしたら見えているのかもしれないし、触れているのかもしれない。圧力や温度を感じているのかもしれない。

知覚としての視覚では「見えていない」けれど、「見える気がする」という感覚は、既に多くの人が体験してきたことでしょう。

あるいは、記憶で"見えるもの"が変わるなんてことは日常茶飯事です。例えばよく知る道を歩いている自分を想像してみてください。「その角を曲がったらコンビニがあるから、そこでおにぎりを買おう」…と考えるとき。それは"曲がる前からコンビニが見えている"ということと、どう異なっているでしょうか?

常日頃、運転している身からすると、これはかなり実感的に感じられること。知っている道と知らない道とで、実は私たちの運転は全く変わってしまうのです。知らない道では、そのカーブの先で何が起きてもいいように、慎重に走ることになります。

しかし知っている道では、ぐんぐんと進んでいくことができます。それは「この先にカーブがある」だとか、「この道は人が無遠慮に横切ったりしない」という記憶をもとに、私たち自身が、まだ視野に入っていない景色を構成しているからです。

それは正にホピ族が「小道全体が見えている」といったことと、全く同じことではないか。


知覚の拡張への好奇心

こうして考えてみると、実は私たちが"正確に見ている"世界というのは、ある私たちの文化圏における、私たちの「視覚」に関する理解を前提においた"正確さ"でしかない。その視覚のなかに見えないものの像が(知覚的になのか、認識的になのか)共存することは、全く不自然なことでもないし、全く珍しいことでもないのです。

その視点から、私たちは「未来の知覚」について考えることができるのではないか。

「未来の知覚」とは、正確に「知覚としての視覚」で捉えるだけでなく、見えないもの、あるいは視覚では捉えられないものを「視覚的に捉える」知覚の方法のことかもしれません。あるいは、知覚以外のもの…記憶だったり、観念だったり…を、なんらかの方法で知覚に取り入れていくような営みかもしれません。

未来にはきっと、こうしたことが可能になっていくのではないでしょうか。

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どういうことか。分かりやすい事例でいえば、正にAR=拡張現実が「未来の知覚」の好例でしょう。テクノロジーによって視覚を拡張し、見えないものが見えるようになる。これがARの力です。

これは、上記で述べたホピ族の「視覚の文化的拡張」を、テクノロジーによって現実化させる(=知覚としての視覚に落としこむ)試みだと言えます。ホピ族がその記憶を含めた認識としての視覚で体感している「小道全体」を、ARによって視覚的にインストールすることができたら。

あるいは、私の知っている道の、「ちょっと先にあるカーブ」「道を曲がった先のコンビニ」を、隣で運転してくれている友人の視覚にインストールするようなことができたとしたら…。それはどんなにわくわくする想像でしょうか。

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もう少し踏み込んで可能性を論じるならば、私が常々考えているのは、「知らない知覚」に出会いたいということ。

例えば皆さんは、「接触化学感覚(contact chemical sense)」を知っているでしょうか。

…日高敏隆さんの「動物と人間の世界認識」という本があります。この本も、自分自身の知覚に関する認識を拡張してくれる、知らない世界に触れるあまりに興味深い一冊。

この本の中で、接触化学感覚は以下のように説明されています。

ハエやその他の昆虫は、空気中に漂う匂いを遠くから触覚全体で感じとるばかりでなく、ものにしみこんだ匂いというか、味というか、化学的な性質そのものを、触覚の先端や前肢の先で触れることによって感知できるのである。(p.132)

私たち人間には、その感覚自体がない。嗅覚でも味覚でも触覚でもない、全く新しい知覚がある。そしてそれがどんな感覚なのか、私たちには絶対に知ることができないのです。

そんなことすら考えが及んだことがなかった。「知らない知覚」があるということ、絶対に知悉しえない世界があるということ。

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ほかにもモンシロチョウから見える世界だとか(例えば、モンシロチョウの雄と雌は、私たちから見るとどちらも白色をしています。しかし、モンシロチョウの目から見ると、全く違う色をしているのだそう。どんな色をしているか、想像できるでしょうか)、コウモリが知覚できる超音波だとか。

私たちの世界に確かにあるけれど、見えない、知覚することのできない世界が確かにある。

そんな、私たちに知り得ない"知覚"の匂いに、音に、色に、何かに出会うことができたとしたら。それはどんなに素敵なことでしょうか?

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しかしそれは、「見えない何かに出会う」という経験は、人間が全く体験していないことではありません。

「動物と人間の世界認識」では、例えば「電子」がそうであると述べられています。

人間が構築している世界は、その非常に多くがそのようなもので成り立っている。われわれが現在使っているきわめて多くのもの、たとえば携帯電話にしても、コンピューターにしても、インターネットにしても、すべてその内容が目で見えるものではない。結果をコンピューター画面に表示するかプリントアウトするかすれば、われわれにも見ることができる。メールが空を飛んでいるのを見ることはできないが、それをしかるべき機械で受けて、たとえば、携帯電話の画面に出せば、それが読める。ただし、それが自分の理解しうる言語であれば、である。
このようにして人間は、ある意味で不思議な世界をつくりあげていることになる。こういった世界は、少し前の人間にはまったく考えられなかった。(p.144)

「未来の知覚」が想像させてくれるのは、今の時代の誰もが知り得ない「知覚」を通じて、新しいコミュニケーションができる未来です。

それは、一体どんな世界なのでしょう。「少し前の人間にはまったく考えられなかった」未来は、すぐそこにあるはずです。







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