「ただいる」ことの価値について
シェアハウスという場をしていると、「ただそこにいる」ということが、極めて高い価値を持っている、ということがじわじわと分かってくる。
私たちは、「ただいる」ことから、一体何を受け取っているのだろう。一体そのことの、何が価値なのだろうか?
誰もいないリビングに、人は自然に集わない。
でも、そこに誰かがひとりいるだけで、なんとなくリビングに行ってみようかなあ、ちょっと話をしたくなったらリビングに行ってみようかなあ、という引力が働くのです。
僕のシェアハウスでは、ニートでいることは自然であるというより、むしろ大事なことのように語られることが多いです(そう語っているのはおそらく僕なのですが)。それはもちろん、ニートが持つ余白ある可能性への期待という意味もあるのですが、それ以上に、場として「そこにただいる」のがニートであり、そのただいること、がもたらす空気感にこそ、大事な価値が眠っているのだと思う。
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その「ただいること」が持つ価値を初めて感じたのはおそらく子どもの頃、おじいちゃんやおばあちゃんに対してだったと思う。
三世代同居率の高い山形県では(日本一位の17.8%。H27国勢調査。ちなみに二位が福井)、「家に帰るとおじいちゃんやおばあちゃんがいる」という風景はあまりに身近だ。よく考えてみると、これって当たり前のことではない。三世代同居率は、全国平均約5%だというから。
学校から帰ってきたら、そこにいてくれる、いるはずだという、ただそれだけのことが、すごく穏やかな気持ちを誘起する。なにやらわからない、僕自身がそこにいる、ということを抱擁するような感覚を惹起する力を、「ただいること」は持っている。
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これは「場をつくること」においても、ものすごく大事なことだ。
そこに誰かいるはずだ、行けば受け入れてくれるはずだ、という確信が、「じゃあ、あそこ寄ってこうか」という感覚を生む。「ただいる」ことを超えて、例えばすごく忙しそうにしている場所に、人は用事もなく行くことはない(行くことはできない)。
そう考えてみると、「ただいる」というのは、単にいるということよりむしろ、余白を持って、そこにいること、ということを含意しているみたいだ。
そして、この余白を持って「ただいる」ということが、場をつくるうえでもすごく大事なことなのだ。
これはカフェをはじめとした場という意味でもそうだけど、例えば僕がシェアハウスをやっているとして、誰かを鯖江でアテンドするときに、誰もいないと分かっているシェアハウスに、友人知人を連れて行くことはないだろう。そこに誰かがいてくれて、そこに誰かがいることによる会話だったり、空気感みたいなものが存在してはじめて、そこに連れて行こうと思うのである。
この意味でも、「ただいる」と僕が言っていることは、本当に「ただ、なんともなしに、ただそこにいる」ということなのだけれど、そのことが生み出す行動、そのことが生み出す可能性の広がりは、極めて大きな力を持っている。極めて大きな可能性を持っている。
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私たちは「ただいる」ことに、一体なにを感じているのだろう?
考えてみると、「ただいる」ことの価値って、翻って「私がいる」ことを証明してくれることへの安心感なのかも、と思う。
一人暮らしをしていたころのことを思い返す。ウチに帰ってため息をついても、それを誰も受け止めてくれないのが「一人だ」ということである。昼過ぎまでだらだらと寝続けてふと起きたとき、なんだかまわりが静かだなと思ってふと、あれ、今僕が立っている世界は、本当に存在していたのだろうかと足元がぐらつく瞬間がある。
そんなときに、会話のボールを受け取ってくれる相手がいること。あるいは、会話なんてしなくてもいい、そこにただ存在して、他者が生きている、という事実を教えてくれること。
そこに「ただいる」こと。
それは声をかければ、きっと返してくれる、ということである。それは同時に、「あなたがいる」のであれば「わたしもいる」のだ、ということを、お互いに、無意識に承認しあうことである。
実際にそこで会話なんてしなくたっていい。そこにただ「わたし」と「あなた」がいることは、そのお互いの存在を認め合うこと、つまり存在の相互承認可能性をもっているのである。
だから、私たちは「ただいる」ことに価値を感じる。「ただいる」ことに、安心感やおだやかさや愛おしさを感じるのだと思う。それはまるで、俵万智の短歌みたいに。
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
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