思考のスタディ:日本と顔文化

*このnoteはまだわからないことをとりあえず書いてみる用のnoteです。コメントなど、なんらかの形で感じたこと、思ったことを届けて頂けるとより嬉しいです。

日本は顔文化だなと思う。

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これはフィンランドに来てから初めて気づいたこと。上記の元ツイートで指摘されているような「農家が顔を差し出さければならない」ことをはじめ、なにかしら「親しみ」「あたたかみ」を示すことが求められる際に、日本では顔が差し出される。おそらくそれはもう一つ掘れば、日本では「親しみ」「あたたかみ」が求められるがゆえに、顔が差し出される。

それはまたメディアにもあらわれていて、日本では例えばソトコトの例を引けば、そのプロジェクトがいかに課題を解決しているか、いかに横展開が可能か、ということよりも、そのはじめた個人がいったいどのような背景を持ち、どのような思いや、どのような壁と出会い、現在に至ったかという、個人のナラティブが重視されている。と思う。

一方でこちら(EU)でのいろいろな記事を読むと、個人性は基本的には捨象されている。どんな背景で、どんな思いを持って…ではなくて、こういうことが課題であり、こういったように課題を解決している、ということが記述されている。と、感じる。たぶん。

例えば(サンプル数1で申し訳ないが)トランジションタウンという、いわゆる「まちづくり」界で世界一知られた例(だと思う)の世界と日本を比較してみるとこうである。

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まあ雑な例なのでいくらでも反証は見つかると思うけど、まずは一旦僕の肌感を伝えるものとして認識してほしい。

ちなみにこの感じは「シビックプライド」の世界版と日本版を比較すると非常によく分かるなあと感じている。これは伊藤さんらによる意図的な、あるいは言語や距離的な問題なのかはわからないけれど、どう考えても世界版と日本版ではその体感距離が違う―世界版のプロジェクト事例は、よりなんというか、(まちづくりに対比されるものとしての)「都市計画家」の話を聞いているような距離感がある。

結構不思議なのは、こうした海外での語りからは、そこでどういったことが起こり、どういった風景が生まれ、どんな笑顔や幸せが生まれたのか、という、僕にとってはバイラルに不可欠そうに見えるナラティブすら欠落していがちであること。

これは本当に不思議で、日本での当たり前の感覚でプロジェクトを辿ると、どのプロジェクトも魅力的に見えない。それはプロジェクトが魅力的ではないということではなく、僕の中のプロジェクト評価軸が、いかに課題が解決されたかとか、持続可能な社会にどうインパクトを与えたかではなく、そこでどのように笑顔が生まれたか、ということに極めて偏ってきたから、日本の評価軸でそれを評価しようとしているからだ。

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このような感覚の根幹として、「machizukuri」と「activism」の対比があるのではという仮説を持っている。

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いわば、activismはより「課題解決」的なのだ。Manziniはこの課題解決と「意味構築」とが対比するのだという主張だが、曲解になりそうであることを恐れず言えば、EU的activismが課題解決→持続可能性みたいなところへとフォーカスを拡張していくものであるとすれば、僕らが「顔を差し出している」まちづくりは、いわば個人の幸福→社会幸福みたいなところへと広がっていくようなものであるように感じる。そこで目指されているのはより人間の幸福にフォーカスしたもので、それはより個人に紐づくナラティブが重視される。

一方で(トランジションタウンとかすごく特徴的だが)めっちゃ小さいまちからはじまっても、その思いは常に「世界の持続可能性」にある。なんか非常に大きい課題を解決していこうという視点が常にある。それはむしろ僕なんかのような人間からすると、持続可能性を達成したところで、そこで幸せが軽視されていたら意味なくない?と思ってしまうが、それはどちらに焦点をあてるかという話ではないしどちらも重要なので、それは別にどうでもいいのだが、とにかくここでは、そのようなneighborhood性と、デカい意味でのsociety性との違いがあるのかなあと感じる。

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「顔」文化もその延長にあるのだ。

日本では、取り組みは個人(顔)から始まり、極めて属人的なものとして理解される。しかしながら、そのナラティブに含まれる思いやハードルには共感性があり、その共感がバイラル/次の試行を生む。

EUでは、もちろん取り組みは個人から始まるが、重要なのは「課題をどう解決できるか」(持続可能性をどう達成するか)であって、ナラティブ/個人性はその道程に付随するものでしかない。どのようなアイディアがどう効いているのかが重要で、そこで流された涙や、過去の思いは実際、課題解決には関係ない。

そうであるがゆえに、日本では顔がいわば、ある種の小説の主人公の描写に代わるものとして代替され代表されているのかなと思う。実際、それは本物であることが大事であるというより、「共感できるような顔」であることが求めれていて、笑顔で、なんか優しそうで、あたたかそうな雰囲気が求められているのである。少なくとも顔が求められる空間においては。

これはほんとに良い悪いあると思うけど、そこには結構な権力性が付随すると思っていて、いわば顔を差し出す側は「逃げられない」ようになっているのである。顔と名前と実績とがデジタル(だけではないが)タトゥーとして世界に広がり消費されてしまう。個人的にはこちらのほうが共感性は高いけれど、その逃れなさみたいなことの恐ろしさは感じたりする。

農家の顔だって、実際には人の良さそうなおじいちゃんの笑顔が求められているだけなのだとすれば(実際そうだと思う、そこで求められているのは、いわゆる「まちの商店」での、あるいは「現地住民」とのコミュニケーションの代替なのであろうから)、もはやそれはAIで出力されたかりそめの顔でもいいのかもしれない。とか思ったりした。

(* ちなみに、この「ヨーロッパ」っていうくくりはあまりにデカいのだけど、全く個人の肌感では、ヨーロッパ北部はこんな風な気がしている。つまりUK、ドイツ、北欧など。アメリカはたぶんそれに近いと思う。イタリアやスペインとかはちょっと違うのではないかと思う。これはなにもソースはない、個人の肌感。)

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P.S.

TUBの連続講義で、Local Craft Marketに携わる澤田さんがこんなスライドを出していた。

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これまでは切り取り、編集し、届けるという形が主流だったが、そうではなくLocal Craft Marketでは彼ら自身の生活、彼ら自身が何を考えているのか、どんな場所で作っているのか、その「ありのまま」を共有できるのだ、と。

今、職人(生産者)は、その「ありのまま」の生活全体を「売って」いる。

これは澤田さんへの批判ではない。いま、地方はそうであるしかなくなりつつあるのであり、RENEW自体がそうなのであり、おそらくこれからも「そういう消費のありかた」を目指していくであろう私、そして私たち自身に対する投げかけだ。

Pine=Gilmoreによる経験経済の提唱から早30年、ナイーブに語られてきたコト消費、ストーリー消費は、まさに「他者のナラティブ消費」であるなと思う。僕自身地域にいて、職人やものづくりと距離の近い暮らしをするなかで、いわば「好まれるナラティブ」を提供できるかどうか、「その人のナラティブ自身が美しいかどうか」で売れるかどうかが決まっていくような現象を目の当たりにするなかで、いわばここで市場に供されているのは、個人自身なのだなと思う。個人自身、自分の人生、自分のありのままを切り売りする時代。当然のことながら、それはツイッター、Youtube、Tiktokなどを見ても明らかで、いわば「個人の多様性」が無限に細分化された=消費の無限的多様化が進行した結果、当然のことながらそれは生産の多様化を生むようになる。消費者は「まだ見ぬ多様性」を求め、それが要求したのが「回収されえないもの」としての個人である。製品の多様性には限度があるが、生産者のナラティブは、あるいは「購入者と生産者とのナラティブ=関係性」は、誰にも奪われない、誰からも差別化可能な多様性である。ここで彼らは、関係に金を払っているといえる。関係に値がついている。ここでは、まさに奴隷である―芸能人やアイドルのように、清廉潔白な、望ましい生産者であることを、私たち自身が私たち自身に命じている。これは希望だろうか?ディストピアだろうか?

これは職人やYouTuberだけではない。クリエイター自身もここでは自己の全てを投げ出すことを求められている。

クリエイターがずっと求められてきたのは、デザイン能力だけではない。デザインを求める企業群=買い手・コンシューマーに対して、自己をさらけ出すことを求められる。飲み会にいき、twitterで思想を発信し、良い人を振る舞い、ネットワークをつくり、ビジョンを持ち…。いわばこのようなクリエイティブ社会の、そうであるからこその非匿名性が、今や広く普及してきたのだ、そういう変化が起きているのだ、といってもいいだろう。

ここで審美されているのは製品ではない。機能ではない。値段ではない。私たち、私たちの全てである。(そして地方は、誰かの"生き方"を売り、移住を促進するのだ、ゼロサムゲームの中で、税金というサブスクリプションサービスを売りつけるために?当然また私たち自身も、他者のナラティブを味わい、楽しみ、"消費"する…。)

見ての通り、コト消費という言葉が喧伝されて以降、24時間テレビに対する「感動ポルノ」という批判すら広められ、アイドルは「成長過程」を見せて売上を稼いでは退場させられるなか、いわば現代はナラティブの=感動のレッドオーシャンだと言える。東京の百貨店に並んでいるのは、今やブランドと良い製品、だけではない、陳列されているのは私たちのナラティブなのだ。

それに勝機を見出す地方が、私たちの人生そのものに価格をつけて販売し、「私たち」というものが消費されきったとき、一体私たちが次に売れるものはなんだろうか?あるいは、ピュアにそれを見つめ直し、消費を通じて私たちは生産者と消費者のあいだに幸せな依存関係を作り出しているのだ、かつての作り手と買い手の距離が近い、あのときの理想形を取り戻しつつあるのだと、そう言えるだろうか?

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P.S.

そうやって考えれば、RENEWが通年型観光へと舵を切ろうとするなか、ある職人が言った「私たちは作り続けてこそ職人だから」という声には、より受け取るべき声があるように思う。暮らすまちの観光化は暮らすことの消費化であるとすれば、つくること、製品=製造業によって生活が成立することは、いわば自分をマーケットに投げ出すことに対する、最後の抵抗だとも言えるのかもしれない。

一方で、そうではない方向を考えてみる。それは属人性への解消だろうと思う。それはいわば「代替可能性」そのものである。つまり、その人を消費しない、しなくていいということは、誰か他の人がそれを担えるということとほぼ同義である―その人が作らなくても/その人がお話をしなくてもいい、だからこそ"ありのまま"の消費は防ぐことができる。だとすれば、その代替可能性、その人でなくてもいいこと、といういわば作業化は、イリイチが嘆いたデカルト的合理性、人を人ではない形で扱おうとするモダニズムへの回帰にすぎない。のか?

そうであるならば、私たちはどちらに行っても不幸であることになる。代替可能性がもたらす人間の機械化。関係消費がもたらす人間の商品化。逆説的に、そうであるならばこうしたニヒルな味方に意味はないのかしら?あるいは、西村佳哲さんがルヴァンのパン屋さんのインタビューで記していたのは、「パンがそれぞれ違っていいのだ、接客の仕方が全然違っていいのだ、なぜならばそれがそこに人間がいるということだから」みたいな旨のことを「自分の仕事をつくる」で述べていた気がする(確か)。そのような、きわきわのバランスを取っていくことが可能なのか。いなか。


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P.S. 12/22

このnoteが注目記事に選ばれるとは。笑 ほかの思考のスタディも、よろしければ読んで頂けると幸いです。

当然このnoteはnegativeな側を描き出してはいるものの、実際にはpositiveな側面があることも僕は知っているし体感してきている。消費とはお金を手渡すということであり、お金を手渡すということはまた、そのあり方・生き方への賛同と支援である。また、そのような関係性がマーケットに乗ることによって、我々は偶然ではなく、(見田宗介の交響体symphonicityのように)選択的に関係性をつむいでいくことが可能になる。それは消費が単に消費ではなく、私たちの変容を後押ししていくものとして、新しい視点や生き方を獲得していくものとしての新しい経済のあり方を示すものでもある(上記で批判のための言葉として用いた"関係経済"は、関係を商品化するという視点を持つとともに、関係を通じてお金がめぐる"小さな経済圏"(家入一真)をまた示してもいる)。「くらしのアナキズム」(松村圭一郎)もこのような関係性からなる経済にアナキズム=convivialな、自由・平和・自治を目指す「人間の経済」(グレーバー)のあり方を見出している―松村はこれを「宛先」のある経済、と呼び、これがイリイチが批判したような、人間の匿名化=機械化に抗うものだとしたのである。

本記事で述べたのはしかし、それが松村が指摘したレベルとは別のレベル、現代において宛先経済が実現されている空間において、同時に同じ関係性の別のレイヤーで、インターネットタトゥー的な視点から、個人がマーケットに乗り、大衆の中でアイドル的に判断・消費されるということが同時に起きていることを描き出さなくてはいけない、ということである。

僕はこのようなあり方を批判して退けたいわけではなく、良い面も悪い面も知っているからこそ、良い点を抱擁しながら、悪い点をなくしていきたい。のである。―僕の人生の視座を転換させ、またそこでお金をいただいてもきたのが、まさに僕にとってはその関係経済そのものなのであるから。





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