人体スペア(短編小説)
便利になると、人はひ弱になる。残念ながら、当然のロジックだ。車があれば歩かなくていいから、足が弱る。ただ、もう元の生活には戻らない。便利さには、ちょっとした中毒性があるからだ。
無批判で世の中が便利になった結果、人間の体はとんでもなく脆くなった。ちょっと転べば骨が折れる。咳をすると喉がおかしくなる。目に砂が入っただけで失明する。便利さの弊害というやつだ。
人類はこの問題を、高性能なスペアを作る事で解決した。つまり、体の一部が売り場で買えるという事だ。骨が折れれば、人工骨に変えればいい。マニュアルに沿ってやれば、誰でも1人で出来る様になっている。喉も目も、売り場で新しいのを買ってくればいいのだ。電化製品を定期的に買い換えるようなものだ。健康体を維持する費用の方が高いし、大体の人間がこれを受け入れた。人体スペアビジネスは、一気に巨大市場となった。
さて、これをビジネス化する際、ある批判が巻き起こった。人体を資本主義に巻き込んでいいものか、と。しかし、既に病院ビジネスはそうなっている。金のあるものは良い医療を受けられ、ないものは受けられない。むしろ、低価格でスペアが買える以上、今までよりも良いのでは、というのが大方の意見だった。
人体が取り外し可能になった以上、ファッションとの親和性は否が応でも高まる。流行の眼球とか、流行の唇とか、まるでカラコンやリップのような感覚で、眼球や唇を取り替える若者が急増した。その内、好かれる顔というのが流行れば、皆同じ顔になるという現象が発生した。見分けが全くつかないレベルで同じなのだ。元々医療用のものをファッションで使うのはいかがなものかという意見が相次いだが、若者には届かなかった。
そんなある日、巨大地震が起こった。建物は崩れ、電気は止まった。多くの人々が怪我をした。
しかし、怪我人の数が多すぎたせいで、スペアの数はまったく足りなくなってしまった。ただでさえ、体がひ弱になり脆くなっているのに、スペアが供給されないのだ。人々は、痛みの中で苦しまねばならなかったのだ。
皮肉にも、この時貧困層は特に困らなかった。普段からスペアを買う金がなかった彼らは、それなりに丈夫な体を手にしていた。便利さを味わう金はなかったが、そのおかげでそこそこ健康な体を手にしていたのだ。逆に、楽をしていた層は、困る事となったのだ。
その後、スペアは店で買えるものではなく、医師が許可した際のみ使える、医療品扱いとなった。そもそも、金で健康を直接買おうとする姿勢がバカだったのである。人々は思った。健康であるという事は、何よりも大きな財産であると。
その考えが行きすぎた方へ行き、一億総筋肉社会に移行するのは、また別の話である。