肉屋を応援する豚(短編小説) 過去投稿と同内容
街の外れに、もう何年も前からシャッターを下ろしたままの店があった。
街の人は、いつもはその店の事など忘れているが、ある時だけはふと思い出すのだ。そう、雨の日だ。店には、ちょうど雨を凌げる屋根がついていて、シャッターに寄りかかれば濡れる事はなかった。
この店の前では、雨の日だけ交わる事のない人同士が交わるのだ。
その日は、ひどい大雨だった。雨粒はマーブルチョコレートのように大粒で、頬に当たるとヒリヒリと痛んだ。その粒がアスファルトに当たると、スチールドラムの演奏会のような音が辺りに広がった。
男は雨の中で、靴をグチュリグチュリと鳴らしながら、ようやくこの店にたどり着いた。男は、ずっと雨宿りする場所を探していたのだ。前髪はデコにピッタリと張り付いて、動かなくなっていた。水分がちょっとした接着剤になっていたのだ。
男は屋根の中に入ったものの、全身ずぶ濡れだった。靴の中は、アメンボが飼えそうなくらい水が入っていたし、スーツは体に纏わり付いてギチギチと音を立てていた。
男は、何を見るわけでもなく、空に視線を向けていた。けれど、眼球を通して入った情報は脳に届く事なく、深いため息と共に吐き出されていった。そんな事を数回繰り返した後に、ポケットからタバコを取り出した。しかし、濡れたタバコに火は中々着かなかった。
吸うのを諦めたその瞬間、男は隣に人がいる事に気がついた。髪の長い女だった。どうやら、タバコと向き合っている間にやって来たようだ。男が慌てて顔を向けた瞬間、二人の目が合った。
「ははは…。」
空虚な愛想笑いと会釈は、どこにも行くがなく、その場に留まった。二人の1.5メートルの距離の間を動く事はなかった。こんな時にタバコが吸えないなんて、と男は思った。どちらにせよ、この時代で他者がいる時に吸う事はご法度なのだが。
「…中々止みませんね。」
居心地の悪さから、女は男に声をかけた。
「え、ええ。そうですね。」
男は若干ぎこちない回答をしてみせた。
「…お仕事は、何をされているんですか?」
女からすれば、これは当たり障りのない質問だった。暇だから、隣の人物と喋ってみよう。知らない人だから、とりあえず無難な質問をぶつけてみよう、という思考回路だった。
女の考えでは、スーツを着ている人物に対して仕事の質問をするのが、無難な質問だった。それは廻しをつけている人物に対して、相撲の話を振るのと同じようなものだと思っていた。
しかし、男は働いていなかった。就職活動の真っ最中なのだ。しかも、先ほどお祈りメールをもらったばかりだ。
男は新卒ではない。この間まで、家の中に引きこもっていた。起きると食べると寝るという芸だけで、親から餌をもらう存在だった。しかし、先日男の親は事故で亡くなった。飼い主がいない動物は、自分で飯を探さなくてはならない。まだ今は雀の涙ほどの財産で生きていけるが、それもいつまで持つか分からない。男は日に日に焦りを募らせていた。
「…特に何もしていません。今は就職活動中でして…。」
「あ、そうなんですか。実は私もなんです。けど、中々上手くいかなくって。」
女は純粋に、就職活動中の仲間が見つかって嬉しいと思った。これを機に情報交換とか出来たらいいな、というような淡い夢物語も描いていた。
しかし男からすれば、これほど気まずい事はなかった。女の輝いたオーラからは、人生の悲惨さは微塵も感じられなかった。女は自分を対等に扱ってくれているが、間違いなく立場は対等ではないのだ。人生と上手く向き合い、堅実にキラキラとした階段を登る者と、怠惰な生活のせいで地獄に落ち、そこから這い上がらなくてはならない者を比べてはならない。
もし男が、それなりに努力してその結果空振りしてしまいここにいるのなら、ここまで気まずくはなかっただろう。しかし、これは男のサボりの結果である。全て男のせいだ。誰を責める事も出来まい。
「…そうなんですね。大変ですね。」
喉の奥から強引に絞り出した言葉だった。こんな事、言う権利はない。しかし、男は自分が引きこもりニートだとは、言えなかった。
「自分のやりたい事と、自分に向いてる事が違うって、友達に言われちゃって。どうしようかなあって思ったまして。あなたはどうですか?」
「ど、どうって…。」
「やりたい事と、向いてる事。どっちを選びました?」
やりたい事と、向いてる事。
男は一瞬目を閉じた。そして、脳内のタンスの一番奥に仕舞い込んだ記憶を取り出した。
男とて、何も最初からニートだった訳ではない。男には夢があった。画家になる事だった。幼い頃から絵が上手かった男は、いつか皆に愛されるような絵を描こうと夢見た。
しかし、中学そして高校と進むにつれ、夢は肥大化していった。空想の中で悪戯に食べ物を与えられ、ブクブクと醜く太っていった。
俺の才能なら、日本の芸大なんて余裕だ。海外だって目指せる。花の都パリで、夢を叶えるのも悪くはない。アトリエは恵比寿辺りにおこう。打ちっぱなしのコンクリにして、余計なものは置かないんだ。サインははもちろん、誰よりもカッコいいものを考えよう。それに、有名になったら、税金対策も考えなきゃな。何せ、世界中から依頼が来て、ガッポガッポ儲かるんだからな。アッハッハ…。
こういう想像は、決して悪い事ではない。問題は、男に才能がなかった事だ。小学生の時から、全く上手くならない。下手の物好きから、レベルが全く成長しないのだ。
しかし、自意識だけはムクムクと男の中で成長し、そのせいで客観性を失った。男が客観性を取り戻したのは、両親が亡くなった時だった。男はこの時27歳。大学に進学しなかったので、実に9年間引きこもっていた事になる。その間、絵の練習は殆どしなかった。時々、ネットの海に自作の絵を投げる事はあったが、反応はほとんどなかった。そういった現実が男を苦しめ、かと言って今更マトモにはなれず、ただただ時間を浪費する日々が続いていた。
しかし、ようやく現実が追いついてきたので、男は走り出す事になった。もちろん、ロクな準備運動をしていないので、肉離れは何度も起こしている。それでも、走らなければならないのだ。そして、結果は出ていない。企業から届くお祈りメールは幾重にも積み重なった。
男には、一つ分かった事がある。男には、やりたい事も向いている事もなかった。その現実を何度も突きつけられた。男には、最早仕事を選ぶ権利すらないのかもしれない。
男は深海のような目をして、言葉を紡いだ。
「…どちらも選びませんでしたね。やりたい事でも、向いてる事でもなく、出来る事を選ぼうと思ってます。」
「出来る事、ですか。」
「あんまり、出来る事がないですから。」
「そ、そんな事ないですよ。それに、自分を安く売ると、きっと後悔しますよ。」
「…肉屋を応援する豚の話、知ってますか?」
男は語りかけるように、激しい感情を宥めるかのように、努めて毛布のような声で話した。マグマのような気持ちは、誰に向かっているのか。答えは知っていた。だから、この話をするのだ。女と自分に、言って聞かせるために。
「肉屋を応援する、豚?」
「世の中には、肉屋側の人間と豚側の人間がいます。飼う側と飼われる側、といいますか。僕が今やっている事が、肉屋を応援する豚、なんですね。」
「飼われないように注意深く生きていかないといけない、みたいな話ですか?」
「そういう事です。けれど、僕はこの話には続きがあると思っているんです。」
「続き?」
雨は強くなったり弱くなったりしていた。男は、心のどこかで雨が強くなっていく事を望んでいた。一方、女は雨が早く止んで欲しいと思っていた。早く家に帰って、SPIの問題集を解きたかったからだ。
「豚の中にも、野生で生きられる奴とそうでない奴がいるでしょう。勘が鋭かったり、強かったりする奴は、肉屋なんてまっぴらごめんでしょう。でも、弱い奴は?直ぐに狼がやってきて、食いちぎられてしまいますよ。それならば、まだ餌を保証してくれて、死ぬ時もノックガンで一撃必殺で殺してくれる。弱くて鈍い豚にとっては、肉屋の方が野生より人道的なんですよ。」
「…言いたい事は分かりましたけど、それは豚の話では?人間はそれとは違う…。」
「いや、同じです。無能は人間は飼われている方が楽です。豚がそうするように、食えと言われれば食う。太れと言われれば太る。自分がない方が、楽なんです。だって、大嫌いな自分自身を見なくてもいいから。」
「…もしかして、それって…。」
「ええ、僕自身の話です。」
男は出来るだけ明るい声を出したつもりだった。しかし、鳴り響いた雷によって、男のセリフは悲しげに演出された。あるいは、男が曲げようとした感情を、元に戻したという言い方が正しいのかもしれない。
男の独白はクライマックスに達した。
「もし、自分の人生でこんなクソみたいな言葉を言いたくないのであれば、行動して下さい。やりたい事と向いてる事、選択肢がある内にどちらかを掴み取ってください。グズグズしてると、豚になっちゃいますよ。」
「…。」
「それじゃ、僕は行きますよ。」
独演会を終えた男は、雨の中を走っていった。
女は呆然としてしまい、固まった。そして、あの人は何か悪いものでも食べた、と思う事にした。
しばらくすると、雨は綺麗さっぱりと止んだ。太陽が雲間から覗き、世界を照らし始めた。
「あの人も、もう少し止むのを待てば良かったのに。」
女はそう呟いた。男の人生を絞り出した言葉は、女の中にはもうほとんど残っていなかった。ただ女は、男はいつもああやって生きてきたのではないかと考えた。歯車が軋むまで耐え、耐えられなくなったら発散し、周りも見ずに飛び出す。そして、冷静になって後悔して落ち込み、自分を傷つける言葉を探す。
別に、絵が描けないからといって全てが否定される訳ではない。しかし、自分を否定する人間が他者から否定されるのは至極当たり前のことである。一番身近な人間を愛せないのに、仲間を愛せるかどうかは疑問視されるからだ。女は、彼は自分を豚呼ばわりするのをやめて、絵を描けない自分を認めるしかないのでは、と思った。
しかし、しばらく歩くとそんな事は忘れてしまった。今日の面接の反省点と、SPI対策の事で頭は一杯になってしまった。女の中で、男の記憶は急速に色褪せていった。そして気がつくと、頭の中から消え失せてしまった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?