ワールド・アトマイザー(短編小説)
「ねえ、私のアトマイザー見なかった?」
「アトマイザーって何さ?」
「…あんたに聞いた私が馬鹿だった。」
喋りながら己の口臭が耐え難いほどキツイと感じたのは、昼寝のし過ぎが原因だった。無職は時間が腐るほどあるから自己投資のために沢山使える、とか俺に言ってた奴は詐欺罪で捕まれ。眠っても眠っても眠気が襲ってくるせいで、一日のほとんどを寝て過ごしている。昼飯のために12時、晩飯のために19時に起きる。それ以外はほとんど眠っていた。
「で、アトマイザーって何さ?」
「香水とか化粧水を入れておく、シュってするやつよ。」
「ああ、霧吹きの事ね。知らない。その辺に転がってるんじゃない?」
「そんな事言われたって、私すぐに長崎行かないとなんだから…。あ、あったわ。」
姉は銀色のアトマイザーを手に取ると、ポーチにしまって、そのポーチをアジの開きのようなスーツケースに入れた。
「急な出張とは大変だね。」
「働いてたらよくある事でしょ?あんただって、社会に出た事無い訳じゃないんだから、分かるでしょ?」
「それが分かるようになる前に、戦力外通告出されちゃったからな。」
「セルフ戦力外通告、でしょ。まだトライアウトがあるのに。」
「怪我でボールを投げられないんだ。マウンドに立つ資格が無いよ。」
「…そう。じゃ、もう私行くから。留守はよろしくね。2日後に帰るから。」
「ん。気を付けて。」
アジの開きのようだったスーツケースを見事にたたみ、まるで大統領補佐官のようにしっかりとした格好の姉を、僕は横目でしか見られなかった。
ドアの音がしたので、僕はまた目を瞑った。眠気がやってくる。どこかでサイレンの音が聞こえてくる。でもそれは僕には関係ない。僕は眠りの世界に滑り落ちていく。
「知ってる?」
「何を?」
「地球の7割は水なんだって。」
「ふーん。それで?」
「この星は単なる水を入れる容器に過ぎないのさ。アトマイザー、みたいなものかな?」
「あ、さっき教えてもらった単語を!カッコつけで使いやがって。」
「まあ聞けって。この世界がアトマイザーであるならば、その中で頑張ったり頑張らなかったりする意味、全てがない事にならないか?だって、全ての意味は水を保つ事にあるんだから。水じゃない僕らは、最初から意味から外れてる。」
「意味なんて求める方が馬鹿なのさ。そんな物は各個人で勝手に思い込んでいくしかない。」
「じゃあ君の生きている意味は?」
「無いね。いつ終わってもいい。寝てるだけだから。」
「じゃあ今死んでもいいんだ?」
「…あ、今は困るな。姉が長崎から帰ってくるまで留守を頼まれているんだ。それまでは生きなくちゃ。」
「…その後は?」
「なんだかんだ色々とあると思う。細かい事が。だから、うん。そういう細かい事をこなして行く内に気がついたら死んじゃうんだと思う。」
「それでいい人生だったって言える?」
「それはその時になってみないと…。けど今はこの生活が好きだよ。姉がいて、昼寝ができて、後は、うん温かい部屋に住めている。好きな音楽もあるし。」
「なるほどな。もしお前がちょっとでも死に関心あるならそうしなかったが、お前は本当に生に関心があるらしい。いいだろう。褒美をくれてやる。目を覚ませ。」
「ああ、はい。えっと、ところで、どなた….。」
咳で目覚める。すると部屋の周りが焼けていた。幸い、ベランダの方はまだ火が回っていなかったので、そこに逃げる。するとたまたま消防士が上の階の住人をはしご車で避難させている所だった。気づいてもらえたおかげでなんとか死ぬ前に助け出された。
「隣の家の家事に気が付かないとはあんたも馬鹿だねえ。」
「ああ、寝る前にサイレンが鳴ってたのはそういう事か。」
「ところでさ、夢の中であんたを起こしてくれたのって誰なのさ?心当たりないの?」
「…さあね。」
分かったら無職じゃなくて、その力で一儲けしてやるさ。心の中でそう呟いて、また目を瞑った。