負け試合の風は涼しい(短編小説)
神宮球場のレフトスタンドには涼しい風が吹いていた。右を見ると、聳え立ったビルに小さな看板で「頑張れスワローズ」と書いてある。あそこで働けば毎試合スワローズ戦がチラ見出来るのだろうか。
山田哲人のホームランの後から、周りには諦めムードが漂っていた。僕も硬い椅子に座り、現実を受け止めようと必死だった。この試合に負ければ、優勝はなくなる。点差はもう取り返しのつかないほどに開いている。僕の心は白け切っていた。
携帯を目を落とそうとした時、ふと自分の着ているユニホームに違和感を覚えた。よく見てみると、ボタンの周りが黒く汚れている。朝カバンに入れてきた時は、真っ白だったのに。まいったな、またか。
最近、謎の汚れに悩まされている。昨日、ゲーム会社と商談に行った際にも、ワイシャツが黒く汚れていた。炭鉱に入った後のように、ボタン周りや袖周りが黒く汚れていた。おかげで商談中はパソコンで手を隠すのに必死だった。
スマホで「服 黒くなる 原因」で調べても有益な情報は出てこなかった。朝汚れてないのだから、黒カビではないだろうに、Googleはしつこく黒カビ説をゴリ押ししてきた。僕は段々と岩に潰されている悟空のような気持ちになっていった。どこからか、三蔵法師が来て助けてくれないか、とくだらない祈りまで捧げそうになる。
僕をさらに嫌な気持ちにさせたのは、Googleのアイコンがとあるゲームとコラボしていた事だった。Googleのアイコンは日替わりでコラボをしているが、よりによって今一番見たくないゲームになっていた。
そのゲームは昨日の商談のメイントピックスだった。このゲームを何本うちの店舗に入れるか、という商談において、一番若手の僕は上司達の前で試遊をする事になった。最初にゲーム内で色々と質問され、正直に答えた。するとゲームが「あなたの事が分かりました。あなたは自分の苦しみや悲しみを他人のせいにしていませんか?あなただけが辛い訳ではないのですよ」と説教された。上司達は大笑いだった。僕は筋斗雲で今すぐにこの部屋を飛び出したかった。
昨日からずっとその事が頭から離れなかった。ようやく心から何もかも忘れられる野球を見に来たのに、また苦しみを味わう事になった。僕は、僕は、たまらなくなる。
その時、周りから声がドワっと聞こえた。顔を上げると、レフトで選手が倒れ込みながらボールをキャッチしていた。これでスリーアウト。攻撃は後一回残っている。倒れ込んだ後、すっくりと起き上がる姿を僕は口を開けながら眺めていた。
ふいに指の力が抜けて、スマホの画面に当たる。間違えて曲を再生してしまう。「神の手の中にあるのなら その時々に出来ることは 宇宙の中で良い事を決意するくらい」と歌う。慌てて曲を消すが、歌詞は頭に残る。僕はメガホンを取り、攻撃に備える。孫悟空も神の手から逃れられなかったから、三蔵法師と天竺にお経を取りに行った。なら同じく神の手から逃れられな僕が出来る事は、誰よりもでかい声で応援歌を歌う事だ。
周りの声はどんどん小さくなる。それは、他球場で行われている試合で、1位のチームが勝っていると伝えられたからだ。しかし、僕にとってそんなことは関係ない。僕は応援する。それしか出来ないから。
試合が終わった。見せ場はなかった。優勝する事はできなかった。今日は神宮での最終戦だったので、選手が挨拶に来てくれた。横一列で頭を下げる姿を見て、僕は涙を堪えるのに必死だった。まだ、CSがある。最後には笑おう。そう思った。
ファンがかける声は希望に満ちていた。みんな悔しいだろうけど、それでも希望に満ちているのは、きっと全力で応援したという自負があるからだろう。もし僕が苦しさに対して不貞腐れっぱなしだったら、恥ずかしくてこの場にいられなかっただろう。
帰り道。人混みは辛く、緊箍児に締められているように頭痛がする。けど、イライラしたりしない。辛いのは僕だけじゃないから。明日のニュースでは、ライバルチームの話題で埋め尽くされているだろう。けど、どうでもいい。CSと日本シリーズで我々のチームが一番目立てばいい。そうなるように応援していくだけだ。夜が深くなり、風はさらに涼しくなる。もう、野球の季節も終わりそうだ。今年も頑張って応援したと、年末に炬燵で思い出せればいいと思った。
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※歌詞引用 小沢健二/流動体について