赤いブランコ(短編小説)
頭に衝撃が走る。視界が一瞬真っ白くなって、それから真っ赤になった。
その次に飛び込んできた景色は無機質な天井で、何処なのかさえ分からなかった。何も考えられなかったし、何も覚えていなかった。
「いわゆる記憶喪失でしょうな。頭部にダメージがあったので、その影響でしょう。けれど、私は何人も記憶を取り戻した患者さんを見てきましたから。心配しすぎに、ゆっくり体を治していきましょう。」
「そ、そうですか…。」
僕の手元には持ち物がなく、住所や連絡先も分からなかった。警察の人がやってきて色んな質問をされたが、どの質問にも上手く答える事が出来なかった。僕は行方不明者として扱われ、全国の捜索願と照らし合わされたが、合致するものはなかった。
脳へのダメージは酷いものだった。感情を司る部分に深刻なダメージがあったようで、リハビリ中に感情的になる事が多かった。上手くいかなければ怒鳴り声をあげ、物に当たった。リハビリは当初のスケジュールからどんどん遅れていった。感情的になった後は、酷い自己嫌悪に襲われた。
僕はそのうち、リハビリをサボるようになった。病室からぼーっと窓の外を見ている時間の方が多くなった。僕のいた部屋からは病院の中庭が見えた。ある日、中庭で工事が行われているのを見かけたので、担当の医師に何の工事か聞いてみた。
「中庭にブランコを設置するんですよ。」
「ブランコ、ってなんですか?」
「ああ、ブランコを覚えていないのですね。では、完成したら説明しましょう。その方がきっと楽しいですから。」
3日後、工事が完了してブランコが取り付けられた。僕は医師に連れられてブランコを見に行ったが、これのどこが楽しいのかいまいち分からなかった。
「紐でぶら下がっている椅子に座って、面白いんですか?」
「座るだけじゃないんですよ。こうやってほら、漕ぐんですよ。」
医師はブランコに座ると、ゆらゆらと揺れ始めた。それは徐々に空に近くなり、迫力を産むようになっていた。確かにこれであれば面白そうだと感じた。医師が赤いブランコを漕ぐのを僕はぼーっと眺めていた。
その時だった。僕は頭に酷い痛みを感じた。血管が千切れそうな痛みだった。
「痛い!痛い!おい!なんとかしてくれ!脳みそが爆発する!」
「落ち着いて!おい!看護師を呼んでくれ!」
その後、CTを取るなど脳みそのあちこちを調べたが、異常は見られなかった。医師によると、記憶が戻りかけている可能性があるとの事だった。という事は、ブランコが鍵になっているのかもしれない。僕はブランコの事を考えながら眠りについた。
翌朝、看護師から今日でこの病院が設立50年を迎えたと伝えられた。
「それがなんだって言うんですか?僕に関係ないでしょ。」
「院長がお金を出してくださいまして、お昼ご飯と夜ご飯が豪華になるんですよ。幸い、食べる物に制限はありませんから、いっぱい食べてください。」
「それを先に言ってくれないとさあ…。」
珍しくリハビリを頑張った後、昼飯が運ばれてくる。高級感のあるお重を開けると、中には豪華なおかずが入っていた。
「中がマグロと鯛の刺身、トンカツ、根菜の煮しめ、えっとそれから…。」
「…。」
「あれ?どうかしました?食べられない物ありましたかね?」
「また頭が…。割れそう…。」
僕はまたありとあらゆる検査を受ける事になった。異常は無かった。医師は記憶が戻るのも近い、とだけ言った。僕はまた頭痛が来るのではないかと不安になり、夜も眠れなかった。
目をひたすら瞑り、眠ろう眠ろうとして午前3時になった。気分転換に中庭へ出て散歩をする事にした。それにもう一度ブランコを見れば、記憶が蘇るかもしれない。記憶が蘇れば、頭痛に悩まされる事もなくなる。痛いのは嫌だが、ずっと不安なのはもっと嫌だった。
中庭へ出ると、担当の医師がブランコの前に立っていた。
「…なぜここに来たんだい?」
「眠れなかったので…。」
「ブランコを見ても頭痛は起きないか?」
「あ…そういえば…。」
「そうか…。記憶は戻らないか…。もう一度やり直そうか…。」
「…はい?」
「何でもないよ…。ブランコに乗るかい?前は乗れなかっただろう。」
「はい。是非。」
僕はブランコに乗った。担当の医師が後ろから押してくれた。僕の足は徐々に空に近くなる。高く、高く、高く。
医師は押すのをやめ、ブランコは止まった。中々面白いと思った。
「いやあ楽しかったですよ。あ、あなたも乗りまー」
僕は突き飛ばされる。地面がどんどん近くなっていく。頭に衝撃が走る。視界が一瞬真っ白くなって、それから真っ赤になった。
「赤をキーワードにしてたんだ。脳みその感情を司る部分を弄れば、記憶を蘇らせる事も、消す事も、感情と連携して出来るはずだったんだ。君が記憶の最後に見た赤色に関連づけて、感情を呼び起こす事で記憶も呼び起こせるはずだったんだけど、まだ研究が足りないみたいだね。けどまあ、次は失敗しないから。これからもよろしくね。実験体くん。」
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