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【いらっしゃいませ‼︎ またお越しくださいませ⁇ 22】
40万を使う目的
村岡紗奈は、衣料品や雑貨を販売する企業の正社員。紳士服事業部に所属し、現場である紳士服店で勤務している。
郊外型の店舗に勤務していたときのことだった。
その店は、周辺の商店街と良好な関係を築き、店長は年に1回、商店街の集まりに参加し、交流を重ねてきた。
商店街の店主、店長という責任者が来店すれば、正社員もパートさん達も、挨拶だけでなく、一言、二言程度に、多少の話に応じることもあった。
繁忙期の夕方。
店の並びにある娯楽施設の店長・岡辺(おかべ)が来店した。
タイミング悪く、紗奈を含め、正社員とパートさんは、全員接客中で、挨拶するのがやっとだった。
岡辺はカジュアルコーナーにいた。
紗奈はスーツを購入したお客様の接客をしている最中で、そのお客様が「カジュアルパンツも欲しい」とのことだったので、そのお客様と共にカジュアルコーナーに移動した。
岡辺と目があったので、軽く会釈し「いらっしゃいませ」と紗奈は声を掛けた。
岡辺は、紗奈が他のお客様を接客中だというのに、遠慮なく次々に声を掛けてきた。
内容は、「今、履いているズボンに合うニットはどれか?」「この色は自分に合っているか?」「派手すぎないか?」など。
お客様を接客しながら、答えても答えても、話しかけるのを止めない岡辺に、紗奈もさすがにイライラした。
同じ商店街の店長さんだから、イライラに耐えながら対応してきたが、止まらない岡辺の行動にイライラのピークが達し、口調がキツくなった。
「すみません、私、他のお客様を接客中でして、接客をご希望でしたら、他の販売員が来るまでお待ちいただけますか?」
岡辺は「じゃあ、このセーター2枚ちょうだい。いくら?」と、言って、紗奈にセーターを渡そうとした。
「申し訳ございませんが、採寸が無い商品ですし、レジカウンターにお持ち頂けますか? その方が、早く会計が出来ますので」
「あ、そうなんだ。悪い、悪い」
岡辺は紗奈からやっと離れ、紗奈は元々接客していたお客様の接客に専念した。
紗奈の接客が終わったのはそれから30分後だった。
購入していただいたスーツとカジュアルパンツを縫製室に持ち込み、売り場に戻ると、まだ岡辺はカジュアルコーナーにいた。
『え……まだいるの?』
紗奈のメインの担当はレジカウンター業務。
このときは、珍しくスーツの接客販売をしていただけだったので、レジカウンターに戻ると、カジュアル担当のパートさんがレジに来た。
「村岡さん、◯◯店の店長さん、待ってますよ。接客してもらってたって言ってますけど」
「はぁ? 接客なんてしてないけど」
接客というような対応はしていない。
スーツとカジュアルパンツを購入してくれたお客様の接客中に、岡辺が無理矢理、何度も割り込んできたから、渋々答えていただけだ。
パートさんは「そうですよねぇ……私も、他のお客様を接客しながら、村岡さんがスーツのお客様を接客していたの見てたので、あの店長さんを接客してたって認識はなかったんですよね〜。だから、私が接客終わって、声を掛けたら、村岡さんの接客を待ってるからって、断られたんですよね〜」と言った。
ここまで来ると、イライラどころか憤りにしか感じない紗奈。
レジカウンターをレジ担当のパートさんに任せ、再び紗奈はカジュアルコーナーに向かった。
紗奈に気付いた岡辺が、声を掛けてきた。
「会計しようと思ったんだけど、他の商品も欲しくなって、迷ってたんだ。どれが俺に似合うと思う?」
正直、紗奈にはどうでもいいことだった。
ここまで来ると、仕事の妨害を受けている気分だった。
適当に、「こちらでしょうか……」と答えると、「じゃあ、これちょうだい。いくら?」と、またしてもレジに行こうとしないで、紗奈に商品と現金を渡そうとする。
「消費税の計算もありますので、レジカウンターへどうぞ」
そういうと岡辺は慌てて「じゃあ、今、ここで1万円渡すから」と言い、なぜかレジカウンターに行こうとしない。
紗奈が商品と共に1万円を預かり、レジで精算し、商品を専用の袋に包み入れる。
カートンに釣り銭を入れ、商品を渡しに再びカジュアルコーナーに向かう。
岡辺に釣り銭を渡したときだった。
岡辺は釣り銭を財布に入れると、札入れ部分を広げて紗奈に見せつけてきた。
「ここに40万以上入ってる。閉店後、神社の前で、タクシーに乗って待ってるからね。閉店時間はもちろん知ってるよ。じゃあ、あとでね」
そう言うと買った商品を受け取り、店を出て行った。
店から徒歩3分ほどのところに、確かに小さな神社はあったが、紗奈の帰宅方向ではない。
好みでもなく、紗奈より30歳は年上であろう岡辺からの誘いは、気持ちが悪くて絶対に無理な話だった。
『40万払うから、付き合えと⁉︎』
心の中で『もう2度と来るな』と怒鳴っていた紗奈だった。
同じ商店街の店の店長ゆえに、トラブルになるのも嫌だった紗奈は、自分の店の店長とマネジャーにこの件を報告。
この件は、リアルタイムで近くにいたパートさんが、紗奈と岡辺のやり取りを聞いていて、すでに他のパートさん達にも知れ渡っていた。
店長とマネジャーは危機感ゼロで、「気を付けるように」とだけ言った。
その態度に、パートさん達の全員が怒って、抗議した。
というのも、以前、美人系のパートさんが、別の男性客から何度か誘われ、断っていたとき、店長は即座に介入し、不必要な来店を断り、安全のためにパートさんを自宅まで送り届けていたからだった。
店長は渋々、紗奈を最寄駅まで送り届けた。
待ちぼうけを喰らった、岡辺は、それ以降、姿を見せなくなった。
実際のところ
一昔前の時代、実際に体験したことに、多少の脚色をして回顧録的な物語に仕上げました。
店の中の環境は、働く側の世界は女性ばかりで、男性は店長とマネジャーくらいでした。
対して、お客様の基本は、紳士服店なので、男性が圧倒的に多くなります。
そして、度々、勘違いをする男性客が現れます。
こういうとき、店長は従業員の安全を考慮しなくてはなりません。
美人系のパートさん(20代半ば)が、そういう目に遭った時の店長(既婚者・30代後半)は、素早い対応で介入し、パートさんを自宅まで送りましたが、正社員で特別美人でもなかった、フツーの私(当時20代前半)に対しては、「正社員なんだから自分で気を付けて接客して」と、最寄駅に届ける間の車中で注意しました。
要は、私が客として来た、娯楽施設の店長に誤解を与えるような態度で接客したんだろう?と。
でも、パートさんたちは、私がそんなことをしないのは分かってくれていたので、そこだけは救いでした。
今の時代なら、お客側の言動も問題ですが、当時の店長も差別的な対応で問題になったかもしれません。