【いらっしゃいませ‼︎ またお越しくださいませ⁇ ⑩】
お怒りなのは分かりますが、やり過ぎです
村岡紗奈は、衣料品や雑貨を販売している企業の正社員だ。
所属は紳士服事業部で、現場である紳士服店で勤務している。
接客業は土日祝日が忙しくなるので、正社員を含め、パートさん達も基本、平日に公休を取る。
ゆえに、売り場は最低限の人数で回すので、手薄状態だ。
しかし、紗奈が勤務する店の場合、平日の閉店間際は更に来店数が減少し、閉店時間の30分前からお客様ゼロも閑散期なら珍しくない。
閑散期の平日。
この日の出勤は、男性マネジャーと紗奈で、売り場のパートさんは3名だけだった。
紗奈は接客販売も出来るが、レジカウンター業務と事務がメインの担当なので、売り場で接客販売が出来る人数は実質4名だった。
大型店では無いので、閑散期でこの人員は、問題ない。
閉店時間の30分前、売り場のお客様がほぼいないことを確認してから、紗奈は夕方の休憩を兼ねて事務室で10分程の事務作業を行っていた。
そこへ売り場にいるマネジャーから事務室に内線が入った。
「はい、事務室です」
「村岡さん、今すぐ売り場に戻って!」
紗奈が返事をする前に、内線は切れた。
急いで売り場に戻ると、レジにはフリー(接客不要)のお客様が会計や、直しで預けたスーツの受け取りなどで列を作り、スーツコーナーとジャケット&スラックス(ジャケスラ)コーナーは、繁忙期か?というような混雑ぶりだった。
閑散期、稀にこういう事が起きるのだが、一極集中的に、お客様の来店が重なると、店はパンク状態になる。
紗奈の代わりにレジにいたマネジャーは、紗奈とレジを交代すると、売り場で接客を待つお客様達の元へ走っていった。
幸い、レジに並んでいたお客様から、「遅い」などと不満の声は出なかったのだが……。
ジャケスラコーナーから「すみませーん!」という男性の声が聞こえた。
しかし、紗奈はレジを離れることも出来ず、マネジャーを含めた4名の販売員も、既にスーツやスラックスなどを接客中で、対応出来る販売員はいなかった。
その後も何度か、同じ声で販売員を呼ぶ声が聞こえた。
その声が怒鳴り声に変わり、店内に響き渡った。
「誰もいないのか⁉︎ もうこんなもん、いらねぇ‼︎」
その声を聞いても、レジにはまだお客様が並び、紗奈が対応しに行くことは絶対に不可能だった。
売り場の販売員に対応してもらうしかなかった。
ジャケスラコーナーで接客をしていたベテランパートさんが、接客中のお客様に待って頂くかたちで、その声の男性の元へ行くのが見えた。
男性は程なくして、メイン通路に現れ、その後をパートさんが追いながら声を掛けていた。
「申し訳ございませんーー」
「もう、こんな店、2度と来ねぇ‼︎」
その怒鳴り声と共に「ガシャン」と衝撃音がした。
追いかけるパートさんが、「お客様ーー」と再び声を掛ける。
しかし男性の返事は無く、次にもっと大きくて激しい衝突音とガラスが割れたような音が店内に響いた。
他のお客様のどよめきと、パートさんの大きな驚きの声、接客中のお客様を置き去りに、店の出入り口に走り出すマネジャー。
別の接客中だったパートさんが走ってレジに来た。
「村岡さん、大変! 自動ドア、破られた!!」
「え⁉︎」
紗奈もレジにいたお客様にお断りをしてから、出入り口が見える所まで走って行くと、風除室と売り場の境目であるガラスの自動ドアが見事に破られていた。
後を追っていたパートさんは、「村岡さん、あの男が自動ドアを蹴って車で逃げた! ナンバープレートはメモったから!!」と言った。
紗奈が駐車場を見ると、走り去る車が1台、確認出来た。
破られた自動ドアの対応は後回しにし、皆、接客に戻る。
紗奈はパートさんから聞いたナンバープレートを更にメモし、レジの接客が途切れたタイミングで本社に電話をした。
紗奈は警察に通報する前に、本社に確認してからと思った。
店長は公休で、この状況に対応するのはマネジャーか紗奈しかいなかった。
まずは店長に連絡するが、連絡が付かない。
総務部に電話をすると、幸い、正社員が残っていた。
紗奈は、状況を説明してから訊ねた。
「自動ドアを破ったお客様の車のナンバープレートは控えていますので、こちらから直接、警察に電話しても良いでしょうか? それとも総務部から電話しますか?」
想定外な返事が返ってきた。
「お客様をそこまで怒らせたのは、店側に原因がありますので、通報しなくても良いです。自動ドアは保険で直します。そのままでは帰れないでしょうから、今すぐこちらから業者に連絡しますので、応急処置してもらいましょう」
紗奈はこの判断に納得がいかなかった。
総務部相手に、警察への通報を再度求めたが、却下された。
確かに接客対応出来なかったのが原因だが、接客拒否をした訳ではない。
パートさん達によると、皆、接客中ながらも、その男性客に対して、「少々お待ちください」と声掛けはしていた。
しかし、その「少々」の感じ方には個人差があり、店側とお客様という立場の違いでも差は生じる。
待たせる側と、待たされる側では、時間の流れる感覚が違うのだ。
待ち切れなくなった男性は、販売員がいないので、スラックスをフィッティングルームに持ち込むと、試着を始め、裾上げを頼みたくて、再度「すみませーん!」と販売員を呼んだ。
それでも「少々お待ちください」と言われ続けてしまった男性客は、怒りに任せて、試着していたスラックスをフィッティングルームに脱ぎ捨て、やっとパートさんの1人が駆けつけたときには、「こんなもん、いらねぇ‼︎」と怒鳴った直後だった。
パートさんは、謝りながらも後を追った。
男性はその声を無視し、出入り口手前にあったキャスター付きのミラー(姿見)に蹴りを入れた。
ミラーは、カジュアルの陳列棚に衝突したが、破れなかった。
次に男性客は、自動ドアに思いっきり蹴りを入れて破り、そのまま振り返りもせずに車で逃げ帰ったーー。
というのが、その時の状況だった。
閉店後、紗奈とマネジャーは再度、公休だった店長に連絡を試み、やっと連絡が取れた。
そのまま店長が店に来るのを待ちつつ、ガラス業者が来るのを待っていた。
現れた店長は、マネジャーと紗奈にキツく注意した。
「こういう時は、掛け持ちでマネジャーが接客するか、他のパートさんに指示を出して掛け持ちで接客させて、会計は村岡さんに任せるべきだっただろう! あなた達は社員なんだから、掛け持ち接客の判断、出来るだろう?」
確かに、繁忙期の激混みの時間帯や、新規出店した店舗のオープン日は、来店数が多いと、掛け持ち接客は当たり前のことだった。
紗奈にしてみれば、公休とはいえ緊急時になかなか連絡取れない店の責任者も、どうなんだろうか?と思ったが、心の中に留めておいた。
この物語について / 実際のところ
この物語は、一昔前に私・星屑が勤務していた店で、実際にあったことに多少の脚色を加えた回顧録的なものです。
実話率90%といった感じです。
閑散期の閉店時間直前、稀に『示し合わせてきたのか⁉︎ 』と思いたくなるくらいに、お客様が多数、短時間で集中的に来店されることがありました。
確かに、他のお客様の接客で、販売員が足りない状況になり、お待たせしてしまったのは、申し訳ないことです。
掛け持ち接客まで、考えが至らなかった判断ミスもありました。
怒鳴り声を聞いたとき、そのまま帰られることは想定出来ましたが、まさか自動ドアを思いっきり蹴りで破られるとは思いませんでした。
当時、50代後半から60代半ばくらいの男性客でした。
お怒りはごもっともなんですが、自動ドアを蹴って破る行為は犯罪です。
やりすぎでしょ⁉︎ と思いつつ、本社の対応にも納得が出来ませんでした。
今の時代のように「カスハラ」という言葉が当時にもあれば、本社の判断は違っていたかもしれませんね。