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【いらっしゃいませ‼︎ またお越しくださいませ⁇ 23】


イタズラ

村岡紗奈は、衣料品や雑貨を販売する企業の正社員。
紳士服事業部に所属し、現場である紳士服店に勤務している。

繁忙期の土曜日だった。
紗奈の担当は、基本、レジカウンター業務全般と、店舗の経理・事務・総務だが、状況によっては、マルチに接客販売もする。

紗奈がスーツの接客を終え、販売したスーツを縫製室に持って行こうとしたときだった。
スーツ担当のパートさんが紗奈を焦って引き留めた。
「村岡さん、ネクタイが大変なことになってます。お願いしても良いですか?」
「今ですか?」
「はい。私も接客が終わったら、すぐに行きますから!」

急ぎの直しではなかったので、レジカウンターに販売したスーツを置いて、急いでネクタイコーナーに行くと、ガラス什器に綺麗に並べらられていたネクタイが、什器1台分、床に落とされていた。

このネクタイ什器、アルファベットで例えるなら真上から見ると「I(アイ)」のような状態で、両側に3段の棚がある。
最上段と中段はガラスの棚になり、下段は木製となっている。
分かりやすく言うなら、手前側と裏側に棚がある。
そこに1段あたり、ネクタイが50本前後ずつ並べられていた。

片面の棚だけで150本。
裏側の棚も合わせれば、300本になる。
それが全て、床に落とされていたのだ。

急いで紗奈はネクタイを回収し、店に置いてある綺麗な箱に入れると、その場で1本、1本、汚れや傷が無いか確認した。
接客が終わったカジュアル担当のパートさんも駆けつけ、手伝い始めた。

パートさんが憤りながら紗奈に言った。
「この忙しい時に……お客様の荷物でも引っかかったんでしょうか?」

「荷物が引っかかったなら、ガラス棚ごと落ちてるか、1段だけじゃない? 什器両面、ネクタイだけ全て落ちるなんて有り得ないよ」

「そっか……じゃあ、誰かがワザと?」

「でも、いい大人がそんなことする⁉︎」

2人の会話を聞いていた客の1人が声を掛けてきた。
「あのー、そのネクタイ落としたの大人じゃないですよ」

「え⁉︎」
紗奈たちは驚いた。

客が指を差した方向は、ジャケットとスラックスコーナーだった。
「あそこの夫婦の子供が走りながら手で、落としていきましたよ」

「ハァ〜⁉︎」
思わず、本気で怒りを滲ませた声を出してしまった紗奈たち。
慌てて「あ、すみません。教えて頂き、ありがとうございました」と頭を下げた。
客からは「大変ですね」と同情された。

床に落ちたものをすぐに陳列して、販売するのは躊躇われた。
自分が客なら、床に落とされたネクタイを、買ってすぐに使いたいと思わない。

ちなみに店で扱っているネクタイは、1本3900円〜5900円の値段が主流で、自宅で洗濯出来るものではない。
クリーニング店でないと無理な話だ。

とはいえ、一気に300本ものネクタイをクリーニング店に持ち込むことも不可能だった。
その間、ネクタイが店から無くなり、販売出来なくなる。

接客が終わったマネジャーも駆けつけ、紗奈たちを手伝い始めた。

紗奈たちが、ネクタイの状態を確認することに集中していたときだった。
背後から、客のざわめきと同時に、「君、ダメだよ!」と注意する男性の声がした。

振り返ると、紗奈たちの背後にあった、もう1台のネクタイ什器のネクタイを、走りながら手で落としていく幼稚園児くらいの男の子がいた。

男の子は注意されて、驚いたらしく、親のところへ逃げていった。
そして、母親は呑気に「どこに行ってたの〜? 離れたらダメでしょ〜?」と言っていた。
父親は、ジャケット担当のパートさんから接客を受けながら、ジャケットの試着に夢中だった。

背後のネクタイが落とされたのは、ガラス棚1枚分、つまり約50本だった。
誰も気付かなければ、誰も注意しなかったら、また全てのネクタイを床に落とされていただろう。

紗奈は、子供のやったことだからで、済む話ではないと思った。
「マネジャー、私、あの子の親に伝えてきます! ネクタイに傷がついてたり、汚れたら、弁償問題じゃないですか」

「村岡さん、言わなくていいよ」

「何でですか? 子供のやったことに責任持つのは親の役目でしょう?」

ネクタイ回収を手伝っていたカジュアルのパートさんも、紗奈と同意見だった。

不満いっぱいで、落とされたネクタイを拾い、1点ずつ確認していると、目撃者の1人のお客様が、男の子の親の元に行き、この出来事を伝えたようで、子供を連れて両親がネクタイコーナーにやって来た。

「すみません。うちの子がイタズラしてしまって」

紗奈は、傷ついたり汚れて売り物にならないものがあった場合、または、床に落とされたネクタイのクリーニング代を請求する可能性だけでも説明したかったが、その前にマネジャーが「大丈夫ですよ」と言ってしまった。

マネジャーとしてはここで恩を売って、お客様には気分よく買い物をしてもらいたいという考えがあったようだが、親は謝罪をすると、あっさり何も買わずに帰ってしまった。

紗奈もパートさんも、マネジャーの対応に呆れるばかりだった。

ネクタイは、傷も汚れも確認されなかったことから、そのまま陳列して販売することになった。

紗奈としては、床に落ちたものをそのまま販売することに、罪悪感を感じた。

実際のところ

一昔前、私が実際に体験したことをベースに、多少の脚色を加えた、回顧録的な物語的です。

小さな子供が、親の買い物に付き合うとなると、子供は次第に退屈になります。
それも、紳士服という専門店ならすぐに退屈になると思います。
靴を脱いで遊んだり、アニメの映像が流れているような、お子様対策の無い店だったので。

退屈対策をしてくる親御さんもいらっしゃいましたが、少数派でした。

子供によっては、スーツを陳列している什器の下に潜り込んで、隠れんぼ遊びをしたり、走り回ったり、親が買い与えたと思われるジュースやソフトクリームを飲食しながら来店し、床にこぼしたり、落としたりということもありました。

幸い、商品を食べ物や飲み物で汚されたことは、私が勤務していた店ではありませんでしたが。

親の買い物に子供を連れて行く際は、大変かとは思いますが、親御さんはお子さんから目を離さないで頂けたらと、当時は強く思いました。
店内は、什器や自動ドアなど、子供にとって危険な場所もありますので。

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