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【いらっしゃいませ‼︎ またお越しくださいませ⁇ 16】


それ、わざとです

村岡紗奈は、衣料品と雑貨販売の企業の正社員。
紳士服事業部に所属し、現場である紳士服店で勤務している。

店での紗奈の担当は、レジカウンター業務全般と、店舗の経理事務全般、総務的なことで、状況によっては売り場で、オールマイティに接客販売もする。

レジカウンターは、会計する場所だけではなく、総合案内、総合受付の意味合いもあり、時として、クレーム対応窓口にもなる。
ゆえに、レジ担当とはいえ、売り場全体の把握、商品と商品知識の把握、直し(縫製)の知識が求められる。

繁忙期の土日祝日は、様々なお客様が来店される。
スーツを普段から着る機会の多い人、普段は着ることはないが、必要に迫られてスーツの購入で来店される人。

その休日明けの夕方だった。
40代くらいの男性が購入したスーツを持って、来店された。
一目でクレームと分かる。
真っ直ぐ、レジカウンターにやって来る。
採寸ミスか、縫製ミスか……?
紗奈は身構えながらも、営業スマイルで声掛けをする。

「いらっしゃいませー」

男性はテーラーバッグに入ったままのスーツをレジカウンターに置いた。

「あのさ、昨日、スーツ受け取ったんだけどさ、こんなの初めてだよ」

「いかがなさいましたか?」

「ズボンの裾上げだよ。はみ出てるんだ! 恥ずかしくて履けないよ」

紗奈は、何を言いたいのかすぐに察した。
答えは分かっている。
問題は、お客様に恥を掻かせないように、どう伝えるかだった。

テーラーバッグを開け、スーツを取り出す。
上下揃った状態のままだった。
スラックスを取り出し、裾の部分を見る。
『多分、このこと言ってるんだよね……?』
そう思いながら、男性客に確認した。

「お客様、この踵の部分でしょうか?」

「そう! 裏側の当て布がはみ出してるから、履いたときも見えるんだよ。見えないようにやり直してくれない?」

紳士服のスーツや礼服、スラックスといったズボンの踵部分の裏側には、裾上げの際に、長方形の布が縫い付けられる。
これは「靴擦れ」といって、靴の踵部分がスラックスと擦れ合って、生地が擦れるのを防ぐ役目がある。
靴擦れとして使う布は、裾上げの際に発生する切れ端なので、ズボンと同じ色柄となる。

男性の不満は続く。
「今まで、他のところでスーツ買ってて、今回、初めてここで買ってみたんだけどさぁ、こんなに下手な仕上げされたの初めてだよ」

「あの……お客様」

「ん?」

「お客様のご要望通り、再直しも勿論、可能なんですが、それだとズボンの踵部分がダメージを受けやすくなるので、踵部分が擦れて生地が傷んで破れるような感じになってしまいますが……」

「はぁ? 今まではみ出して縫い付けられたことなんて1回も無いんだ。こっちの言う通りにやってくれないか?」

「お客様、この踵の当て布なんですが、スラックス本体を守って、少しでも長持ちさせるために、わざと1、2ミリ、はみ出すように縫い付けています。これは縫製技術としては難しいことで、丁寧に縫い付けたものです」

男性客は驚きの表情を見せた。

「わざとはみ出させて縫い付けるのが正しいって言うのか?」

「他の会社の縫製さんが、どういう認識かは分かりかねますが、弊社では全ての店舗で、このような仕上げをしています。大体2ミリ以内ではみ出させています」

そこへ、男性店長がやって来て、自分が着用しているスーツのズボンを見せた。

「私の裾も、この様に靴擦れは1、2ミリ程度、はみ出す様に仕上がっています。この僅かな生地のはみ出しがあることで、踵部分は擦れから保護されますよ」

男性客は、店長からの補足説明を受け、靴擦れの縫い直しはせずに、納得して持ち帰って行った。

「またお越しくださいませ〜」

紗奈は店長に言った。
「ありがとうございました。私の説明だけでは、信じてもらえたかどうか……」

「お客さんによっては、店員の見た目年齢で決めつける人もいるからね〜。正しい説明してるのに、それが正しいのか判断出来ないんだよなぁ」

「あのお客さん、今まで靴擦れ、はみ出して取り付けられたことが無かったって言ってましたけど、今度は今まで買ってたお店にクレーム入れるんでしょうか?」

「俺なら、2度と行かないか、裾上げのときに、わざと靴擦れをはみ出させる仕上げを要求するかだな」

この物語について / 実際のところ

この物語は、一昔前に、実際に体験したことをベースに、多少の脚色を付け、回顧録的な物語にしています。

当時、このクレーム(?)を受けた後、縫製室のパートさんにこの件を話しました。
パートさんからは「わざと1、2ミリはみ出させて縫い付けるって、手間が掛かってるし、意外に難しいんだから」と言われました。

確かに、1、2ミリ幅で均等に、はみ出させてミシンで縫い付けるのは、一手間で、難しいことだと、言われて気付きました。

滅多にないクレームでしたが、説明すると、どのお客様も理解頂けました。



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