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65.賜物?それとも受ける権利のある報酬? 4:4-5

4,働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。
5,しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。

ローマ人への手紙4章4−5節;新改訳聖書2017版

 神は、「不敬虔な者」を本人の善行がなくても正当化するのでしょうか。

 律法に従えば、もちろん本人が自分の不法を償わなければなりません。しかし、彼の「不法ぶり」に対しては、どのような償いをすることになったのでしょうか。

 人に対する不義のための償いではなく、神に対する不義のための償いが求められているのです。

 それは、人間の行いがいかに善良に見えても、それによっては償うことはできないものでした。神に対する不義の償いはその命であり、刑罰は「死」であるからです。(ローマ.1:31)

 人間をあわれんでくださる神は、人類の罪を取り除くために、死んで、さらに死からよみがえられたイエス・キリストという「和解の道」を用意されました。

 人が義とされるのは、この神を信じる信仰によるものです。神からの報酬を要求できるほどの働きもないまま、ただ心で信じただけで。

 神が求めているのは、何よりも、まず心の結びつきだったのです。

考えてみましょう:あなたは、神に対する自分の罪に対して、私はそれに見合った十分な善行をしたからそれで良しとしてほしい、と言えるほどの事をしたと言えるでしょうか。




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