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43.ローマ3:3-4 証人がたとえ不真実だったとしても
3,では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。
4,決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます」と書いてあるとおりです。
多くの人々は、ユダヤ人が神に選ばれた神の真理の証人であることに困惑していました。彼らは神に対して忠実ではなかったと思われたからです。
では、神の真実さは証人の忠実さに依存しているのでしょうか?
もし証人が不誠実であれば、神もまた不誠実でしかないとみなされるのでしょうか?
この神が真実なのか、それともその言葉の数々が嘘なのか、今は多くの人々がこの神をさばいているのですが、終わりの日には明らかになる、と聖書考えてみましょう 福音が宣べ伝えられるようになった当時は、もちろんキリスト教徒は社会的に少数派でした。しかし、パウロはローマの聖徒たちに、神の真理に確信を持つよう励ました。私たちがそうでないときでも、神は忠実であるのだ、と。
実に、私たちこそが、自分が忠実ではないことを一番良く知っているのですから、このパウロの励ましが一番の慰めです。
考えてみましょう:あなたは、神に対して自分は忠実に生きていたいと願っていますか。それともそうは思いませんか。そうした願いは、なぜ起きるのでしょう?