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はじロー(31)自分の人生を取り戻す
はじめて読むローマ人への手紙5章16-17節
自分の人生を取り戻す
いのちに満ちあふれる人生が与えられます。
それをパウロはもう一つ別のしかたで言い表しています。
それは、死が支配していた人生を私たち自身に取り戻して、私たちが神と共に支配する人生にかわることです。
アダムによってこの世に入った罪は、人間を生まれながらにして、嫌がおうにも「死」に定める結果をもたらしました。
この「死」とは、単に、時が来たら肉体が亡くなる死というだけではなく、神と共に生きることができない、神とともに動くことができない人間のからだの状態を指すのだ、と考えられました。
それは、実は自分自身でも自覚できないままに、自分の人生が自分ではどうにもできないことを意味していたのです。今この時、神と共に生きることができず、そして最終的には、永遠の死を迎えなければならない、という人生です。
アダム以降、人は神の似姿に生まれるのではなく、アダムに似たものとして生まれてきます(創世記5章3節)。生まれながらにして神に背を向けた人格的(霊の)存在として、神を知らない存在として、人間は世に生まれてくることになりました。霊的に死んだ状態です。
創世記5章に記される系図に繰り返されるのが「死」という言葉です。この世に死が入ったことが強調されています。人間は生まれながらに、全人格が死に支配されている者となったのでした。
それが、キリストの贖いによって、恵みと義があふれるばかりに与えられます。それによって初めて、それまでは神に背いた死に体として生きていたことを自覚することが可能となったわけです。
神が与えてくださっている自分の人生を自覚的に生きる。そのように、自分の人生を取り戻すことができるのです。
そこからが、新しい生き方。
キリストの贖いを受け、永遠のいのちは与えられたけれど、リハビリなしには動くことができない「からだ」であることを知ります。そこからのリハビリも「賜物」として与えられ、多くの人に満ちあふれる。ローマ人への手紙の続きは、私にはそんな風に読めるのです。
ローマ人への手紙5章16-17節
また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。
(新改訳2017)