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「油しぼりの園」での祈り

マタイ26:36-46

この頃は住宅街を散歩すると庭木にオリーブをよく見かけます。瀬戸内海地方で生産されるオリーブ・オイルもけっこうでまわっています。アニメの「ポパイ」で見るオリーブくらいしか知らなかった世代にとっては、今の日本は世界の食材がすぐ手元にあるのが不思議です。

「油しぼりの園」とタイトルに書きましたが、地名は「ゲッセマネ」。ゲッセマネの意味が、「油しぼり」なのでした。オリーブ山と呼ばれる丘陵の中にある油しぼりの場所だったのでしょう。谷を挟んだ隣の丘の都市が、エルサレム。

過越の食事を終えてイエス・キリストと弟子たちの一行が向かったのですが、エルサレムに来てからしばしば祈りの場所として利用していたようです。

先に中座して弟子たちにはどこへ行ったか不明だったイスカリオテのユダも、いつものその場所を知っていて、イエス捕縛の一隊をゲッセマネの園に連れてくるのです。

A.一緒に目を覚ましていなさい

ユダが抜けて11人となった弟子たちのうち、3人だけがさらに「向こうへ行って」「わたしと一緒に目をさましていなさい」と命じられます。ペテロとヤコブ、ヨハネです。

大変な悲しみに襲われて、一人ではいられない、という場面。この週のはじめ、エルサレムに到着したときにも、イエス・キリストは次のような表情を見せていました。

ルカによる福音書 19:41-42
いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、
「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。」

エルサレムの行く末が破滅であることをわかっていての、悲しみでした。

でも、この「油しぼりの園」、すなわちゲッセマネでは、死にそうだというほどの悲しみにとらわれていたのです。

どれほどの悲しみか、は、次でより詳しく見てみます。ここでは、イエス・キリストが3人の弟子を選んで一緒に、目を覚ましているように命じたことに注目。

この3人は、福音書の記事のあちこちでも選抜メンバーとして重要な席についています。なぜこの3人なのか、理由は明らかにされていません。

ペテロは、自分で弟子の筆頭である、と自負していたようです。何かと前に出て、弟子の代表のように話をしていました。最年長者だったかもしれません。ヤコブとヨハネは、イエスが王位についた時にはそのすぐ左右の座につかせてほしいと願い出ていた兄弟です。積極的にイエスの近くにいようとした3人だったのかもしれません。

イエス・キリストの近くにいたい!! その気持ちが強くある人が、キリストの一大事に際しても近くにいるように命じられたように、私には思えます。

そして、「一緒に目を覚ましていなさい」。教会でよく2,3人一グループになって祈ることがありますが、ここでは一緒に祈れ、ではなく、目を覚ましていなさい、です。まるで、これから恥ずかしげもなくあらわにする慟哭の叫びを、しっかり見ておくように、とでも言っているようです。

一緒に、とは、イエスと同じ心で今この時を過ごしてほしい、ということだったでしょうか。いったい、どのような心で、イエスはこの園に来たのか。

B.わが父よ、もしできることでしたら。。

悲しみのあまり、死ぬほどである、と言ったイエスの心は? このあと十字架にかけられて死を迎えることは、むしろ初めから淡々と弟子たちに語っていたように思えます。いざ死を迎えようとして感じた、死ぬほどの悲しみ、とは何だったのでしょうか。

しかも、死を予告していた言葉には、復活の予告も含まれていました。死んでもまたよみがえることが確かなら、死を恐れる必要はない、と考えてしまいます。そう思ってしまうのは、私たちが永遠の命を得たならもう死は恐ろしくない、という感じの延長でしょうか。

でも、おそらくわたしたちは、イエス・キリストが迎えようとしている死の本当の悲惨さを想像することもできていないのです。多くの人が経験した十字架での死の苦しみをすべてを飲み干す以上の心の痛み。それで、こう祈ります。

「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」

「杯」は、ここでは神の激しい怒りが注がれることを象徴しているものです(脚注)。十字架での「死」は、神の呪いを受け、神と全く断絶することを意味するものでした。

罪を犯した結果、人間が置かれていた状況が、そのようなもの。だから、というのでしょうか、私たちには神の呪いとか神との断絶に関して、鈍感なのです。

けれども、神の御子であるイエス・キリストは、神の呪いを受けることなどありえない完全な方です。そして、父なる神と一つである方。それが、神の呪いを受け、神と断絶するとなったら、どれほどの激震なのか。たとえ、そのあとで復活する、と言っても、断絶する事実の深さは変わらないでしょう。

逆に、私たちはイエス・キリストのこの苦悩から、神との断絶について、それが非常に深刻な問題であることを感じ取るべきなのでしょう。

最後には、御子は父に願いを無理強いすることをせず、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と言います。御子には、「父のみこころ」が、すでにはっきり理解できていたのです。事が起こってから、「それがみこころだったのだ」というのとは全然違います。

C.ひと時もわたしと一緒に目をさましていられなかったのか

選ばれた三人は、イエス・キリストの苦悩を間近に感じることができたはずのチャンスを逃してしまいます。すっかり眠りこけてしまうのです。イエス・キリストは、結局三度祈るのですが、毎回、すとんと眠りに落ちてしまっていました。

その中でも、特にペテロが名指しで声をかけられるのです。

「彼らが眠っていたので、ペテロに言われた」

つまずきの予告でも、ペテロが特別な不面目なことを言われていました。さらにそれに輪をかけて、という感じ。最後の授業の続きのようです。

「肉体が弱いのである。」

イエス・キリストも、肉体を持った存在となって、肉体の弱さをよくよく実感していたのかもしれません。罪深さとは違う、弱さがあるのです。それは、非難や𠮟責の対象ではありませんでした。2度目はそのままに眠っているままにしておいたあとで、最後は「敵が迫っている」からと起こすだけです。

心が熱していても、からだがついていけない。それにしても、この時に限って、どうして弟子たちはそろってそんなに睡魔に襲われてしまったのでしょうか。一日、重労働をしたわけでもなかったでしょうに。単純に、夜半過ぎで、眠いのは当然という時刻だったからでしょうか。

理由はともかく、キリストと一緒に目を覚ましていられなかったこと、危機感もまったくなく、そして決定的なのは、キリストが「神の御子」であることの本質を、全く理解していなかった、ということです。

「キリストは死ぬはずはない。でも、死んでしまったらもうおしまいだ。」心のどこかにその恐れを抱いて、心労の末の睡魔だったのでしょうか。ここまでは人間イエスに従ってきていた弟子たちでしたが、神であるイエスに従っているとは、全く考えていませんでした。その緊張感のなさが、眠りこける弟子たちの姿となってしまったかのようです。

彼らが真のイエスを知ることになるのは、復活の後です。

マタイ26章36-46節
それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。

そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。

また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。 またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。 それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。 それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。

脚注
杯:詩篇11:6、エゼキエル23:32,33


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