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20.ローマ1:19-20 神の義が人間に明らかにされている
神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。
神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
神が人間の不敬虔と不義に対して怒るのは当然のことでしょうか?
もし人間が神を全く知らず、そのために無視し続けているだけだとしたら、神の怒りは当然のこととは言えないように思えます。
けれども、人間は神についての知識は持っているはずなのです。というのも、神ご自身がこの世を創造なさった時以来、さまざまな働きを通して人間にご自身を示してきていたからです。
その証拠に、どんな民族にも必ず宗教があります。どんな民族も、神について何らかの知識を持っているのです。
神は全能のおかたであり、被造物のうちにその力が認められます。人間はそれを知りながらも、この神に対してへりくだることをしない、というのが現状。
真剣に神の義を探求しなければならないのにそうせず、かえって不義によって阻んでしまっているから、神の怒りも当然のことだ、とパウロは言います。
神に対して誰一人として弁明できる人はいません。そして、神のみ前に自分自身の行いによって義とされる人もいないのです。
考えてみましょう:人間が神の怒りを当然受けなければならないのは、なぜでしょうか。一体どんな人間の行為が神の怒りに触れるものでしょうか。