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46.ローマ3:9-10 義人はいない 一人もいない
9,では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。
10,次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
パウロ自身ユダヤ人であり、彼もまた神に選ばれた国民、神の契約を与えられたアブラハムの子孫として、自国民を誇っていました。
でも、神の言葉が与えられているという点でユダヤ民族が優っているとしても、人間としてユダヤ人はもはや誇ることができないことがわかったのでした。
パウロは神の言葉の真実に立ち返ったからです。
"善を行う者はいない"。このように彼は旧約聖書の詩篇14篇を引用して答えています。"主は天から人の子らを見下ろされた。悟る者、神を求める者がいるかどうかと。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない、だれ一人いない。" (詩篇14:2‐3)
例外はない。もし、自分を「良い人」だと思っているなら、この神の言葉に思いを馳せるべきでしょう。
なぜなら、私たちの思考は、目に見えるもの、先祖を含めた人の言うことに限られていて、昔の預言者が語った神の言葉には、なかなか思い至らないものです。
預言者たちが人間について語ったことに従って、自分自身を省みることは、難しいことですが、とても重要。
神の御業は、上からの裁きだけではありません。すべての罪人に対する御恵みがはるかに大きいことを、パウロはこっれから記していきます。私たちが神を経験できるのは、恵みによって、このスタート地点から進んでいくときなのです。
考えてみましょう:もし、鏡がなかったら、あなたは自分の顔を認識できますか?あなたにとって自分の心を映す鏡は何でしょうか?