年の瀬行く年私のお話#5・・・やってしまいました……ッ

 こんばんは。透々透です。みゆきです。
 私はついにやってしまいました。何を?そう、このお散歩日記のハッシュタグの後半、「ポロリもあるよ!」ならぬ「サボりもあるよ!」という、それです。
 やってしまったやってしまった、私はやってしまった……。
 と、言いたいところではございますが、わたくし、実は今日はお散歩をサボって昨日までよりもずっと沢山歩いたのです。
 この矛盾、喩えるなら「観察せずして観察する」物理学だが量子力学だかなんだかのなんかこうなんかすごいこう、あの……アレです。まあ私はぶんぶんぶん、蜂ではないですが文系ガールなので、砂山とか禿げ頭のパラドックスに喩えておきましょう。あるいは、腹太りのパラドックスでもいいかもしれません。「私のおなかがこんなにぷにぷになわけがない」というわけです。何も矛盾していませんが。
 少々、いえ、ひとつまみでしょうか?遠回ってしまった感がありますが、私は実は今日は大学に行ってきたのです。つまりいつもの散歩という名目ではなく、今日は登校という名目で歩いているので実質散歩していません。
 はい、ということで今日の歩いた道ですがいつもと同じ道です。同じなら散歩してるじゃないかバカァッ!!という話もありますが、今回は御縁が無かったということにしておきましょう。言わなければばれないというのも又一興という事です。もう言ってしまいましたが。
 今までの時間はなんだったん、まじでという話ですが、まぁ過ぎたことなので水に流しましょう。今日は晴れていましたから、ちょうどいいです。はれっはれっ、という事です。
 幸い、風は強くなかったのでゆったり歩きながらぽつぽつと私の心に降る雨が二滴。今日はその話をしたいと思います。
 最初のトピックは、という事なのですが、私いつも「トピック」と聞くとお腹が減るんですわよね……あ、これは滴ではないんですけれども。どうしてでしょう?これも名前の由来に次ぐ謎です。恐らくアイスピックか何かを想像しているのでしょう。私だけかもしれませんが、美味しいかき氷屋さんで使う綺麗な氷とかロックの氷っていうんでしょうか、お酒を飲まないのでわかりませんが、正〇面体、みたいな氷、とっても美味しそうなんです。それを連想ゲームしてしまっているのでしょう。多分。
 さて、では最初のアイスピックですが……ズバリ、君ちゃんについてです。君という人がいるわけではなく、君とちゃんについてです。
 私、言ったかどうかアレですが今はクエスチョニングを自認しています。決めかねている状態ですが、一時期はMtFを自認しておりました。今はポニーテーラーみゆきとして一世を風靡はしていませんが、そぼそぼと生きております。
 そんな私はアルバイトや学校、さらには身内にまで「みゆき君」と呼ばれてしまうのですが、それがどうにも耐えがたく……かといって「みゆきちゃん」と呼んでほしいわけでもないのですが、いっそのこと「さん」で統一して欲しいのです。といっても、アホになってくれというわけではないのですが。以前、小学五年生の時の隣のクラスの先生が、家庭科の担当の人だったのですけれど、その人は児童全員を「さん」付けで呼ぶようにしていました。
 当時は男の子を自認していましたので、「なんでくんじゃないんだろう」という疑問と些かの違和感を抱いていましたが、今となっては、そう呼んでくれたことに感謝しています。さてそんな先生はその人だけで、流石に大学になれば「さん」呼びの先生が多くなりはしましたが「くん/ちゃん」が「くん/さん」になったという変化という面もありつつ、という感じですが。アルバイト先の店長も「くん」ということで。
 そう呼ぶから嫌いだとか、そんなことを言いたいわけではないのですけれど、私としては、「くん」と呼ばれるたびに「お前は男だ」と突きつけられているような気分になって、それがとても嫌だった/だという事です……。仕草を、髪を、どれだけ自分の性自認に近づけようとしたところで、表現が伴っていなければ――その方法が分からないのでどうすればいいんだという事でしたが――周りは私を「男」としか見てくれないのだろうか?
 だったらいっそ。MtFを自認するよりも、クエスチョニングという事にしておいた方が辛くないのか、ともんもんとしていた時に、次第に本格的に決めていないという性自認をするようになったという事です。
 要するに、「こういう人もいる」のです。私は「くん」から逃げたかった。でも逃げられなかった。だからきっと、「ちゃん」から逃げたい人もいるでしょう。今思うからこそ、小学五年生の時の家庭科の先生の試みは、私の中で確かな意味を持ってくるのだと、確信しています。
 「さん」呼びじゃ、だめなのかなぁ、と。
 ただ、あまり詳しくはありませんが、文壇、と言うのでしょうか?最初期の大学の、あえて名前は出しませんが、そこでは「~君」と性別に関わらず呼ぶのがある種文化にもなっていたりするようです。それを考えると、はてさて、どうしたらいいものだろうか……。無理にその文化を完全になくせとは口が裂けても言えませんし、かといってくんちゃんは承服しがたい部分がぬぐえず……。
 という事で、一つ目の氷を砕くころには私はいつものファミレス―リストラ・・・・・ん?あ、ファミリーレストランですね、その脇を通っていたわけです。ぷらぷら~っと歩きながら、すっ、と信号に差し掛かった時、私の脳裏に閃光が迸りました――ッ!!
 そう!これが二つ目の氷です。
 一つ目に比べてだいぶ毛色が違ってきますが、そう――「なぜみゆきちはみゆきちなのか?」です。
 実は私、時々、「70億人も人間がいるのに私の中にいるのがこの私でしかないなんておかしいよなぁ」と思うのです。ベンヤミンに言わせればそれこそがアウラだ!という事なのでしょうが、私はいまここにいるこの身体と五感で以て世界を捉えているこの意識とで、存在を証明されているのでしょうか?私以外の人の中身が皆データの集合体だなんていわれたって私には否定のしようがありません。無論、それは私自身についてもです。
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 それでアンダーソン君、君は……おっと。ここにも「君」が出てきてましたね。この「君」はどうなんでしょうね。映画の字幕や吹替翻訳と役割語という事になるのでしょうか?スミスの「アンダーソン君」は、表現が正しいかわかりませんがこう、格式のある感じというか、こう……まあそんな感じの「君」なのでしょうか?
 話が進まないので薬を選らんで飲んてきました。
 飲んだところで私は今ノートパソコンの前に座っていますし、意識が吹っ飛ぶこともありませんが。という事はつまり私は確かにここにいると断言していんでしょうか?でもそれだって怪しいです。どっかの貴族の片手間のお遊びに盤上の機械に繋がった「誰か」の中で道化を演じているだけかもしれません。
 まあそれがどっちかはどうでもよくて、問題は、「70億人もいるのに私を感じているのはいまここに私自身しか居てない」という事なのです。これは絶対におかしいです。だって、もし仮に私が死んだら「私の」と枕詞を付けた世界は消滅してしまいます。その後、私の見ているこの世界があるかどうかなど分かりません。その意味で言ったら、この私が感じている世界というのが、ひどく、脆いものに思えてならないのです。
 「空」といいいますが、ところでそれはどこにあるでしょう?
 私は、「空」を「天蓋」と感じます。半球型のそれに、朝には地平線の向こうから顔を覗かせる陽が張り付き、夜には黄金の月と無数の星々の総覧の張り付きが見られます。空は「上」というよりも、「視界の半分以上を覆うドーム」のように感じられるのです。
 それを想った時、果たしてあの向こうにある宇宙を見てなお、私にそんなことが言えるのだろうかとも思ってきます。所詮は銀河系も太陽系も地球も日本も私が済む県も市も町も、その世界の中のほんのちっぽけないち部分でしかない。であれば、「私はなぜ私なのか」という問いすらもはや意味をなさないのではないか?と思えて来るのです。
 なんて言いつつ、私は地球は青かったなんて言えた身ではありませんし、まして宇宙がないとか、そういう事をいいたいわけでもありません。ただ私が「なぜ私なのか」という溶かせぬ氷に、私は遥かな孤独というか、虚無感というか、酩酊感というか、を感じてしまうのです。その砕き方に、諦観めいたものを加えられたら幾分か楽だろうか、と思ったわけです。
 な~んて言って、たまのあの浮遊する孤独感がたまらんので、これからもたまに思い出していきたいと思います。
 それでは、明日もお散歩を――と、明日も大学に行く予定があるのでお散歩はサボりですね。1/3がサボり日記になってしまいますが、まあ多分書くでしょう。
 私が「目覚めない」限りは。
 透々透。


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