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あなたとの絆

「今年の目標」を書いて、お互いに見せ合うこと。私とヨーグルが何年も続けている年始の恒例行事だ。

初めての年、私は「小説を書く」と書いた。
その年、私は初めて自分の小説を完成させた。

次の年は「文学賞に応募する」だった。
その年、私は初めて小さな地方文学賞に応募して佳作をいただいた。

次の年は「大きな文学賞をとる」だった。
その年、私は少し大きな地方文学賞で入選した。

次の年は「小説家になる」と書いた。
でも、なれなかった。

以後も、私は「小説家になる」と書き続けた。
小説家になるには出版社主催の文学賞を受賞しなければならないと考え、応募を続けたが私の小説は全く通用しなかった。
私はいつしか小説を書かなくなった。

初めての年、ヨーグルは「◯◯社の原稿を完成させる」と書いた。
次の年は「今、書いている原稿を本にする」だったと思う。

最初は一社だけだった依頼が、他の出版社からお声がかかり仕事はどんどん増えた。それに伴い、彼の目標も増えていった。
依頼が十社を超えたあたりから、連載の仕事でいっぱいになり書き下ろしの仕事は手がつけられなくなった。何年も原稿を待ってもらう状態になっても、彼は必ず目標に「〇〇社の書き下ろしに着手する」と書いた。

このころから、目標を書く前に「去年の目標はどれだけ達成できたか」という新しい作業が加わるようになる。

彼が書いたものを思い出しながら達成したか否かを、それを私が彼が昨年書いたものを見ながら確認するのだ。

「〇〇社の連載原稿を書くって、確か書いてたんじゃないか?」
「うん。書いてる。これは達成できてるね」
「××社から本を出す、も書いたな。これも達成だな」
「うん」
「△△社の書き下ろしはできなかったな」
「うん。これ一昨年も書いてたよね」

彼らしいのだが、去年、自分がどんな目標を書いたのか忘れているものもある。
「他にも▢▢社の原稿を書くとか書いてるよ」「俺、そんなこと書いたっけ?」とか。
ダメじゃん(笑)
まぁ、これぐらいゆるいほうがいいのかもしれないけど。

彼は今年も目標をたくさん書いた。
「目標たてすぎよ。こんなの無理よ」と苦笑する私に「いいんだ。たくさんあっていい」と彼はどこまでも前向きだ。

さて、今年の私は迷った。
どうしようかな。また同じように「小説家になる」って書く?小説、書いてないのに?意味ないよね。変えようかな。
そもそも「小説家になる」前に、例えば「本をたくさん読む」とか「小説を完成させる」とかが先じゃない?目標が飛躍し過ぎなのよ。「なるなる詐欺」じゃないんだから。

すでに書き終えた彼が「どうしたの?」と聞く。
彼の「どうしたの?」は、なんだか優しいから、つい私は何でも話してしまう。

「私、毎年「小説家になる」って書いてるけど、そもそも小説も書いてないくせに意味ないよね。違うこと書こうかな。それこそ「小説を書く」とかさ」

でも、書くのを迷う自分がいる。
上り続けた階段をちょっと降りてしまうような。せっかく前に進んでいたのに、ここにきて後退してしまうような。そんな悔しさを覚えるのだ。

彼が「凛子は小説家になりたいのか?」ときく。

答えられなかった。小説も書いてないくせに小説家になりたいなんて言うのもおこがましい。
答えないでいる私に、彼が「小説家になる、でいいと思う」と言う。

「凛子が書きたい目標を書けばいい。目標なんだから好きに書いていいよ。達成できなきゃダメとか、意味がないなんて考えず、書きたいものを書きなさい」

この人と一緒にいると、いつも「これでいい」という気持ちになる。
この人は私をいつも安心させる。決して不安にさせない。

先日、大河ドラマ「光る君へ」の人物相関図をみて「おや?」と思った。

主人公である紫式部と藤原道長の関係が「ソウルメイト」となっているのだ。
「ソウルメイト」なんて、あまり馴染みのない言葉と思っていたので、こういうところで使われているのが意外な気がした。
でも伝えたいことはわかる。
男女の関係は、とかく恋愛面を重視されがちだが恋愛がもたらす以上の強い絆を描きたいのだろう。
恋愛関係が案外脆いもの、もしくは人間関係のあくまで入り口にすぎないことに気がついている人が多いのかもしれない。
特に女性は、恋愛において心の結びつきを強く求める傾向がある。女性に限定するなと言われそうだが、これは私が二年ほどnoteの記事を読み続けて一層強くした考えでもある。
そういう意味では、今回の大河は女性受けするかもしれない。

ヨーグルと出会えた私は幸運だったと思う。この幸運に感謝して、今年は彼を追って書きたい。