私の過去がくれたもの
前回の記事、思うことあり下書きに戻しました。
「スキ」をくださった皆さん、すみません。そしてありがとうございます。
私の不幸な幼少時代は消せない事実です。
今が幸せなんだからそれでいいじゃないか、と何度思ったかしれません。
過去に囚われるなんて、せっかくの今がもったいないとも思います。
ある人に「お母さんとあなたを比較したら、あなたは誰が見ても勝っている。そう考えることはできないか?」と言われました。
確かに、私は勝っているんでしょう。
「あの人たちは敗者」と切り捨てて考えることもできます。
でも、これを夫に話したら「ごめん」と謝られました。
「ごめん。僕はいつだって凛子さんの味方でいたいけど、僕にそんなことは言えない。あまりにもお母様が気の毒だ」
目が覚めました。
いい人と結婚したな、と思いました。
私はどうしたってこの人を不幸にしてはいけないと思いました。
この人を幸せにしたい。この人との娘を幸せにしたい。
それにはまず私は幸せでなくてはならない。
だって、夫と娘は私を深く愛しているからです。
さて、どうするべきか。
過去はなかったことにはできない、忘れることはできない。
もちろん許さなくてもいい。
でも決別はできない。
じゃあ、全て一緒に連れて行くしかないですね。
私は整理整頓が好きです。
冷蔵庫やクローゼット、ありとあらゆる場所をひっくり返しては、キレイに保管し直します。これによって「自分が何をもっているのか」を把握し「これらをどう使うか」を考えるのが楽しい。
過去も同じように整理してみました。
「自分の経験」を把握して「それらをどう使うか」と考えてみたら驚きました。
役立つことが多かったからです。
一、いい男がわかる
簡単です。父と正反対の人を探せばいい。
ただし、なかなかいませんでしたね。
父のような要素を持ってる人は意外に多いのかもしれません。
二、お金に対して長期的な目をもった
私の両親はお金の使い方がとても下手でした。
特に住宅ローンの内容を知ったときは「この人たちは算数ができないのか?想像力が皆無なのか?自分を無敵と思ってるのか?」と呆れました。
私は「おこづかい」をもらったことがありません。
親からお金を渡されるのは「お年玉」だけです。
親戚が少ないので、2,3万ほどしかありませんが、これで一年間やりくりするわけです。
毎年、年始に私は1人予算会議(笑)を行います。
何パーセントを貯蓄にまわし、月にいくら使うか。この月は友人の誕生日があるから多めに分配。この月は特にイベントはないから少なめに。予備費も用意して……。
たった一年ですが、小学生の一年は長い。
これは後々、お金に対する長期的な目を養うのに非常に役立ちました。
長期的な目は金銭に対して大きな武器になります。
三、私の顔に「陰」をつけた
昔から、いろんな人に「〇〇に似てる」と女優やタレントの名前を言われました。でも、似てると思った方は一人もいません。
挙げられた女優さんの顔も、みんなバラバラです。
先日、友人に「凜ちゃんはあの女優さんに似てる。誰だっけ?ほら、あの薄幸そうな女優さん」と言われてピンときました。
似てると挙げられた女優さんたちは、みんな顔に「陰」がある。
みんな、どこか哀しそうでアンニュイで、謎めいた人たちばかりです。
あくまで好みの問題ですが、少なくとも私に興味をもってくれた男性は、私の陰に魅かれたように思えます。
「おとなしいのに、他の女性の誰よりも目立ってた」と言われたことがあります。
女性グループの中に入ると自分が異質だと感じることがあります。みんな、子供時代にしっかり子供でいられた子たちだからでしょう。親のいない家で借金取りの男たちに帰ってもらうよう頭を下げ続けた経験の持ち主なんて一人もいなかった。
子供時代に子供でいられなかった人間は、自然と「陰」をもらうのかもしれません。
「陰」は大きな拒絶を生み出しますが、私の場合、幸運にも魅力に繋がったように思えます。
四、小説を書く原動力になった
私が小説を書くきっかけはヨーグルに感化されてのことですが、それだけでは書けなかったでしょう。
特に純文学を書くには「何故?」という欲求が必要です。
幸せだと小説は書けないと言いますが、確かに私の小説には、あの不可解で腹立たしく、でも哀しく寂しく、それでいて「なんて人間くさい」と思わせる父の存在があります。
私は地方文学賞を二度いただいたことがありますが、そのうちの一つは家族と信仰にまつわる物語でした。
父の横暴なふるまい、その父に付き従う母は熱心な信仰者。
母の信仰に激怒する父、それでも信仰をやめない母。フィクションではありますが、骨格は私の両親でした。
子供の時、そんな両親をみて「神様がいなかったら、私の家はもうちょっと平和なのに」と思ってましたが、彼らの姿は神を巡る歴史を学ぶにしたがって「人は愚かで面白い」という視点に繋がります。
審査員の一人から「信仰に対する疑問に向き合うというより、書くことで逃げるといった印象を受ける」と言われたので私の小説は失敗だったのかもしれません。
だから、いずれ、あのテーマにもう一度取り組むつもりです。
そして、それはきっと私にしか書けないものだと思ってます。