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トンデモ「日本」~目撃したセレブたち~

皆様、ごきげんよう。弾青娥だんせいがです。

この記事で取り上げるのは、私が投稿した記事のなかで、最も反響が大きかったトンデモ「日本」の戯曲The Darling of the Godsに関するものです。(カバー写真は、直接の関係はないものの、ジャポニスム演劇関連の今回の記事にピッタリだと思い、使わせていただきました。)

1902年11月に初演されたこの5幕物の戯曲の概要は、上の記事で書いた内容を借りて説明すると、こういう感じです。


時は、1876年頃の明治時代。
「廃刀令」に加え、トーサン国と結託した朝廷軍の勢力により、
ミカドに刃向かうサムライたちが駆逐されていく。
そのさなか、トーサン国の王子の娘ヨー=サンが、
チョース国のサムライたちの首領カラと恋に落ちる。
ミカドの手先たちが最後のサムライたちを容赦なく追い込むなかで、
果たして二人の恋の行方は……?


作者のデイヴィッド・ベラスコ(1853-1931)とジョン・ルーサー・ロング(1861-1927)。

20世紀初頭のアメリカ人の手がけたこのエクストリーム「ジャパン」は、アメリカでは短くとも1902年から1907年、イギリスでは1903年、1904年、1914年に、オーストラリアとニュージーランドでは1904年から1906年まで公演されました。そのなかで、様々な名士によって見られました。はじめに、日本のセレブから紹介してまいりましょう。

※日本語で記された戦前の文献で引用したものには、適宜ふりがな、句点を追加し、仮名遣いを現代のものに改めています。英語の資料の和訳は、筆者によるものです。


PART 1: 日本のセレブ

1.伏見宮貞愛親王

伏見宮貞愛親王(1858-1923)

The Darling of the Godsは奇妙なサムライたちを追いつめる天皇の奇妙な勢力をフィーチャーした戯曲ですが、日本の皇族である伏見宮貞愛親王の目に触れられていました。親王は1904年にアメリカに渡ってセントルイス万国博覧会に足を運び、11月20日(日曜日)にこのトンデモ「日本」を見ました。渡米時の日記には次のような文があります。

夜接伴員スミス、寺島伯爵、三原武官ヲ従ヘラレ「インペリヤル」劇場ニ臨マル。劇ハ曽テ紐育ニューヨークニテ好評ヲ博セシ日本風俗ヲ以テセル「ダーリング、ヲブ、ゴッド」ヲ演ス。

『伏見宮貞愛親王殿下御渡米日記』

翌日の11月21日には地元紙のSt. Louis Republicが、親王の観劇の様子を詳しく記しています。劇の3幕目が終わった後、親王はヒロインのヨー=サンを演じるブランチ・ベイツにお目にかかりたいと告げ、楽屋に案内されます。

ブランチ・ベイツ(1873-1941)

親王はその女優と談笑しました。同紙はこの日本の皇族の発言を紹介しています。

「実に背の高い女性なのですね。そばでお姿を見ましたら、まさにアメリカ人らしいです。実に驚くべきことですが、舞台上では小柄に見えました――日本人のようでした、と言いましょうか」

St. Louis Republic Nov. 21, 1904 Page 4

楽屋を去って席に戻ると、親王たちはThe Darling of the Godsを最後まで興味津々に観たとSt. Louis Republicは報じています。辛辣な評価をしたということは管見の限り確認できていません。外交に携わる要人であったため、親王は批判的な発言を意図的に避けたのかもしれません。

2.寺島誠一郎

寺島誠一郎(1870-1929)

伯爵の寺島誠一郎も、The Darling of the Godsを観た日本人の一人です。伏見宮貞愛親王が楽屋を訪れた際、通訳として同行しました。1895年にペンシルベニア大学を卒業したゆえに、流暢な英語で通訳に臨んだことでしょう。なお、同上の英字新聞の記事ではCount Teshimiと書かれています。


3.三原三郎

伏見宮貞愛親王の日記でも、St. Louis Republic(ただしMajor Mahiriという表記)でも言及される三原三郎も、観劇者の一人です。親王の日記によれば、当時、陸軍歩兵少佐の地位にあったようです。


4.手島精一

手島精一(1850-1918)

伏見宮貞愛親王の観劇に同行したと人物のなかには、教育者の手島精一もいました。東京教育博物館(国立科学博物館の前身)、東京図書館(国立国会図書館の前身)の主幹を務めた人物でもありました。


5.執行弘道

執行弘道(1853-1927)

セントルイスで観劇した日本人には、明治時代から昭和初期にかけて海外での日本美術普及に貢献した執行弘道しゅぎょうひろみちもいました。St. Louis Republicの記事では、Heromich Shugioという表記になっています。


6.野口米次郎

野口米次郎(1875-1947)

次は、野口米次郎です。詩人として名高かった野口は、渡米時代と渡英時代にThe Darling of the Godsを少なくとも2回は観ています。アメリカでの観劇時の様子は次の通りでした。

午后に至りて馬車を駆りて、当米国に於いて尤も成功せる日本演劇The Darling of the Godsを見る。余が多年の友人にて、加州の女優ブランチ、ベーツ嬢其座頭なり。此の劇や支離滅裂にて、不自然なり。尚ほ紐育第五街にある日本の美術店を、芝居にせるの趣なりという評あるも、外国人にして日本を擬する、如斯かくのごときに於いては、敬意を表せざるを得ず。日本の芸者三三五五、舞台に顕われ、『蝶々菜の葉に留まれ』といふ唱歌を歌うあり。又日本の武士にして『マイゴッド』と叫ぶなり。又『釈迦』と叫ぶあり。れ日本人は同時に幾多の宗教を信ずと、世に酷評するものあるが、或は其点を舞台に於て嘲るにあらずやと思えり。

野口米次郎『英米の十三年』「ボストンに於ける一週日」203ページ

「支離滅裂」や「不自然」という評価をしてはいるものの、「日本」を再現しようとする役者たちの試みにはある程度の良い評価も下しています。1914年にロンドンでThe Darling of the Godsがリバイバルになった際も、野口は観劇し、その時の記録も1917年に残しています。

……英語の間投詞ゴッドを日本流で遣る積りであろう『おお 釈迦 釈迦!』と叫ぶのを聞くと、僕はどうしても笑わざるを得無ったのである。ザクリ(時の将軍に反対するカラを捕えようとする大官)に扮したツリー閣下は年のせいで足が確でないのでよぼよぼして聊か滑稽に見え、時には賤劣に感ぜざるを得無った。……

 劇に顕われる日本人の名前からすでに変なるものばかりで、例をいうとハセベソウエモンという貴族も居ればタンダタンジという武士も居る。サイゴンとかクゴとかミガクとかコウジンとか、日本字でどう書くのか少しも見当の付かぬ胡散臭い名前ばかりの武士が舞台へ顕われるのである。又甚だしいのはベントウという堂々たる武士も居るしチョウとかタロウという探偵もその辺を徘徊するのであった。処で女主人公ヨウさんという美人が大名の姫君でありながら新橋の芸者のように銀杏返えしに髪を結んで活動するのである。

野口米次郎「日本劇に於けるツリー閣下」『新演藝』第2巻第6號(大正6年6月号) 8-9ページ

野口は二段目の引用にあるように、筆者がはじめてThe Darling of the Godsの人名に触れて思った疑問に、見事に触れてくれていました。アメリカでの観劇時よりも批判一辺倒の傾向が目立っています(当然のことでしょう)。野口は、批判的な劇評をイギリスの新聞に寄稿したせいで、ザックリ役のビアボーム・トリーから怒られたことも明かしています。


7.牧野義雄

牧野義雄(1870-1956)

7人目は画家の牧野義雄です。牧野は1903年12月に初演を迎えた同戯曲のプログラムの挿絵を担当しました。

牧野義雄による劇プログラム挿絵のうちの一枚。

牧野はイギリスで初演を迎えた頃に評価を英語でつづりましたが、感想を語る上で9代目市川團十郎の演技に言及したり、『曽我兄弟の仇討ち』との類似性を指摘したりと、好意的なものでした。

ところが、これは建前でした。『朝日新聞』に、日本語で連載した「滞英四十年 今昔物語」で、当時のイギリスとアメリカの日本に対する理解度にある程度の配慮を示しつつも、次のように本音を吐露しています。

劇中日本精神を全然現さないとはいえないが、余程毛唐臭いもので、毛唐七分に日本三分くらいのところだった。しかしその当時英米の公衆にはこれ位のものでなければ分らなかった時代だから、私もそのつもりで舞台装置や衣装、メークアップを工夫した。

牧野義雄「滞英四十年 今昔物語」
『朝日新聞』昭和12年6月30日 東京 朝刊14ページ 

牧野のさらなる本音は、前述の野口米次郎の「日本劇に於けるツリー閣下」にて見ることができます。

『……火の番人が火の用心 火の用心と呼んであるく役者が、どうしても火の用心と発音が出来ないのだよ。何度教えても「チノチョウチン チノチョウチン」と云って仕舞うのだ。……

『……剣の部屋のなかに奇怪千万な印度あたりから来た偶像をかつぎ込んで、ザクリがこの偶像を「応神天皇! ああ応神天皇」と呼びかける場がある。それから五幕目に観音の像を大仏だという場もある。いやはや日本人の眼から見ると一から十まで物に成って居らぬのだ……』

野口米次郎「日本劇に於けるツリー閣下」 7-8ページ

あまつさえ、牧野はビアボーム・トリーから、こう言われたことも暴露しています。

ザックリに扮するビアボーム・トリー

「君そんなに正確でなくてよい。観客が日本人で無くて英国人だ。彼等を喜ばせればそれで沢山だ。彼等に正確な教育を与えるのが目的じゃ無い。してまた観音を取替えて真実まことな大仏の像と直す段になると、そら君もう五百円かかるのだ――静かにして言う勿れだ。キープ・クワイエト!」

野口米次郎「日本劇に於けるツリー閣下」 8ページ

8.林董

林董(1850-1913)

最後は政治家、外交官として活躍した林董はやしただすです。1903年12月31日付のイギリスの週刊紙The Stageが、この人物の観劇を報じています。

観劇の前年に日英同盟に調印した重要人物でもありました。感想の記録は確かめられていませんが、コメントを残していたとしても日英の外交関係に悪影響を及ぼさない建前の感想であろうと推定されます。


9.追記(日本の新聞による紹介)

1914年2月25日の『朝日新聞』東京版朝刊は3ページ目で、The Darling of the Godsを写真付きで紹介しています。その写真の一部と同一のものを以下に貼ります(キャプションの文は同号に載っていたものです)。

舞台上の日本
サー、ハーバート、ツリー一座が近頃倫敦ロンドンのヒズ、マゲエステイ座で演じて大好評を博したベラスコ及びロング作ダーリング、オヴ、ゼ、ゴッヅ(神の愛児あいじ)の人物

こちらの写真(イギリスの新聞The Sphere 1914年1月31日号掲載)は1914年のリバイバル公演時のもので、左からヨー=サン役のメアリー・ローア、ザックリ役のビアボーム・トリー、ザックリの従者役のA. E. バーティーを写しています。当時の『朝日新聞』の読者は間違いなく、この写真を目にして何らかの思いを抱いたことでしょう。


PART 2: 海外セレブ

次は、The Darling of the Godsを観た海外の名士です。筆者が確認した限りでは観劇の感想は残っていないものの、イギリス王室の人物が多く認められます。その人物を写真とともに、次々に紹介します(特記ない限り、写真のキャプションに、観劇したことが判明した資料を掲載します)。

1.エドワード7世アレクサンドラ・オブ・デンマーク

イギリス国王、インド皇帝のエドワード7世(1841-1910)とアレクサンドラ王妃(1844-1925)。
The Times 1904年1月21日 8ページの記事より。

2.ヴィクトリア・アレクサンドラ

ヴィクトリア・アレクサンドラ(1868-1935)。エドワード7世とアレクサンドラ王妃の第2王女。
同上のThe Timesの記事より。

3.ジョージ5世メアリー・オブ・テック

王妃のメアリー・オブ・テック(1867-1953)、ジョージ5世(1865-1936)。

ジョージ5世と王妃のメアリー・オブ・テックは1914年1月のThe Darling of the Godsのリバイバル公演を観ています。イギリスから遠いオーストラリアのメルボルンの新聞The Heraldによれば、その際、数名の婦人参政権論者が劇のさなかに抗議の声を上げたとの報道もされています。

なお、ジョージ5世は1904年、プリンス・オブ・ウェールズだった際にも観劇していました(ソースは前述のThe Timesの記事です)。それゆえ、イギリス王室で唯一のリピーターだったと言えます。


4.エドワード8世

プリンス・オブ・ウェールズ時代のエドワード8世(1894-1972)。
観劇の記録は同上のThe Herald 1914年2月23日 5ページより。

1910年から1936年までプリンス・オブ・ウェールズだったエドワード8世も、観劇していました。


言わずもがな、The Darling of the Godsを観たのはイギリス王室の要人だけではありませんでした。ここでは8人の例を紹介します。

5.イネス・ドイル

イネス・ドイル(1873-1919)。第一次世界大戦では英国陸軍第24師団の参謀将校を務めました。

ドイルというファミリーネームでピンと来た方は多いかと思いますが、この人物はシャーロックホームズシリーズでお馴染みの作家アーサー・コナン・ドイルの弟です。著名な小説家の人生を年代記形式でまとめたA Chronology of the Life of Sir Arthur Conan Doyleによると、イネス・ドイルは1904年の5月24日にコナン・ドイルの妻ルイーズを連れて、The Darling of the Godsを観たとされています。コナン・ドイルに観劇の話をしていないかが大変気になるところです。

なお、コナン・ドイルの肖像画が上述の画家、牧野義雄によって描かれています。二人が直接会って描かれたのかは分かりませんが、以下にその作品を紹介します。

牧野義雄の筆によるアーサー・コナン・ドイル。

6.ローレンス・アルマ=タデマ

ローレンス・アルマ=タデマ(1836-1912)

古代のギリシャ、エジプト、ローマの名画を数多く残した画家のローレンス・アルマ=タデマも観劇者の一人でした。前述した外交官の林董が観劇したことを報じた、1903年12月31日付のThe Stageにアルマ=タデマが鑑賞した記録も載っています。

ローレンス・アルマ=タデマの1904年の作品『モーゼの発見』。
The Darling of the Godsは果たしてこの画家に何らかの影響を残したのでしょうか?

7.リリー・ブレイトンオスカー・アッシュ

ヨー=サンを演じた際のリリー・ブレイトン(1876-1953)。
1904年3月12日のThe Illustrated Sporting and Dramatic Newsより。

夫婦であった二人の観劇も、1903年12月31日付のThe Stageから特定されています。なお、リリー・ブレイトンは1904年の春から夏にかけてヨー=サン役を演じました。また二人は1907年に、ザックリ役も演じたビアボーム・トリーに代わり、ヒズ・マジェスティーズ劇場のマネージャーになり、1916年にはChu Chin Chowという『アリババと40人の盗賊』を題材にしたミュージカル・コメディの主要キャストで登場しました。

Chu Chin Chowにおけるオスカー・アッシュ(1871-1936)。

8.ジャコモ・プッチーニ

ベラスコの戯曲群をオペラ化したジャコモ・プッチーニ(1858-1924)。

デイヴィッド・ベラスコの戯曲『蝶々夫人』や『西部の娘』をオペラにしたジャコモ・プッチーニも、The Darling of the Godsを観た一人です。

参考文献は1898年に創刊されたアメリカのクラシック音楽雑誌Musical Americaです。この記事では「プッチーニによるThe Darling of the Godsオペラ化計画」が報じられていますが、3時間半もの長さのある5幕物の劇であったため、オペラ化は困難だったのかもしれません。もしもオペラ化が実現していれば、『蝶々夫人』のようにヒットし続け、私がこちらの記事を書く必要は無かったでしょう。

なお、オーストラリアの新聞The Camperdown Heraldでも、同様の件が報じられています。ただし、こちらではリハーサルを観たということになっています。


9.ジェイムズ・E・スミス

ジェームズ・E・スミス。写真はHistory of the Louisiana Purchase Exposition (1905)より。
1902年に日本の諸都市を訪れ、博覧会の説明と出品の勧誘を行ないました

ジェイムズ・E・スミスは、1904年のセントルイス万国博覧会を主催する企業の重役であれば、金物を扱うSimmons Hardware Companyというセントルイス拠点企業の取締役でした(1908年の報道では副社長を務めていました)。最初に名を挙げた、伏見宮貞愛親王の観劇に同行していました。


10.リチャード・H・テイラー

スミスと同じく、伏見宮貞愛親王の観劇に同行していました。このリチャード・H・テイラーですが、アメリカ合衆国国務局に勤めていたこと以外、経歴の分からない人物です。


11.ジャック・ロンドン

ジャック・ロンドン(1876-1916)

小説『野性の呼び声』、日露戦争での取材といった功績で知られるアメリカの作家ジャック・ロンドンも、このトンデモ「日本」を目撃していました。1905年の1月末ごろに、カリフォルニア州のオークランドに存在したマクドノー・シアター(MacDonough Theatre)で観劇したと、妻のシャーミアン・ロンドンが著書The Book of Jack Londonの第二巻で明かしています。


12.ロード・ダンセイニ

作家デビュー前に観劇したロード・ダンセイニ(1878-1957)。

最後に紹介する人物は、前回の記事で紹介したロード・ダンセイニです。現在の第21代ダンセイニ男爵はデスメタルを愛でる「環境派」男爵というパワーワード的な称号で圧倒しておりますが、第18代の男爵について、この記事で新しく言及すべきことはございません。しかし、The Darling of the Godsを観た欧米人で唯一、まとまった感想が認められる人物ですので、再度その評価を以下に引用いたしましょう。1903年から1904年までのうちの、某日に観た際の感想です。

その作品に私は影響を受けたというよりは、それは大いなる刺激となったのであったのだ。私の想像力が東洋に向けられていたことはすでに述べた。そしてこの芝居では、目の前にまさに東洋の世界が展開されていたのだ。私の想像力が虚空を彷徨う中で、その世界で羽根を休め、再び旅立つことができたのである。私は斯様な作品に出逢ったことがなく、それは私が創造したいと願っていた世界であり、それも私が簡単に出来ると考えていた類のものであった。しかし別の人間の創造により、その作品は、そこに突然と現れたかの如くであったのだ。それはまるで旅行者が足を踏み入れることが禁じられていた世界に、突如として何者かが侵入するのを目撃したようなものであった。

稲垣博「陽光と煌めきと影:ロード・ダンセイニ自伝(抄訳)」『PEGANA LOST』第9号所収「S・H・サイム」

という風に、20名を超える例を紹介しましたが、お読みくださった皆様にとって、「えっ! あの人も観たんだ!」という驚きがあれば嬉しい限りです。筆者としては、ジェイムズ・E・スミスとリチャード・H・テイラー以外にも、アメリカの著名人の例を見つけたいところです。ジャック・ロンドンが観劇したことを以前に特定していたことを失念しておりましたので、探し求めていた例は一つ見つけていたことになります。

最後まで読んで下さった方々に、感謝申し上げると同時に、ロンドン公演で観られたであろうものをシェアして、こちらの記事を締めくくります。サヨーナラバ!

花魁のRosy Skyを演じるMaud Hildyard。1904年2月10日のThe Tatlerより。

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