Fuji-Ko ― ニューヨークのオペラ界を陰で支えた謎の「日本人」
注:この記事は筆者の妄想ではなく、この世にホントに存在した「日本人」のことです。
オペレッタ『ミカド』、オペラ『蝶々夫人』、私の研究対象であるメロドラマのThe Darling of the Godsなど、19世紀と20世紀初頭のトンデモ「日本」は私を微笑ましく仰天させてくれます。
今回、紹介するのはThe Darling of the Godsが一大ブームを起こしていた20世紀初頭に、アメリカとイギリスで活躍していた「日本人」パフォーマーのFuji-Koです。カバー写真で、どのようなお方であるかを既にご覧になったと思いますが、こちらでもご確認くださいませ。
違和感が否めない写真ではございますが、このFuji-Koの活躍が『ニューヨーク・タイムズ』、『ビルボード』、『ヴォーグ』のような現在も名高いメディアに報じられていたことが、筆者の調査で判明しました。
上に掲げた二葉の写真だけでお腹いっぱいになっていないことを願いつつ、こちらの人物が何者であったのかを説明してまいります。
(日本語の引用は全て筆者による和訳です。Fuji-Koの生涯を全体的に理解したい方は、「3.まとめ」をお読みくださると幸いです。)
1.経歴
謎だらけのパフォーマーFuji-Ko。その名は、複数の英字メディアの報道から、Lady of Wistarias(藤の花の貴婦人)を意味することが認められます。つまり、「藤子」ということです。(富士講との関連も考えた一方、「富士子」と筆者は考えましたが、この予想は外れました。)
確認できた資料の年代から、遅くとも1903年から活動していたことが分かりました。活躍の場はアメリカとイギリスでしたが、そのFuji-Koの面目躍如たるところは、自身の口によって詳しく語られています。
上述のインタビューの内容を裏付けるように、前年の1907年に『ビルボード』がFuji-Koの『ミカド』における活躍を次のように報じています。
ピッティ・シングは、『ミカド』のヒロインであるヤムヤムの姉妹にあたる人物で、Fuji-Koはなかなかの大役を任されていたことになります。
さて、1905年のイギリスの新聞The Daily Mirrorに目をやると、Fuji-Koがロンドンのサボイ劇場でHara-Kiriという劇を上演していたと報じられています。
翌年1906年のイギリスの新聞は、The Love of a Geishaという一幕物の劇を上演するFuji-Koのことを報じます。その内容は同年7月4日のThe Tatlerの記事によると、「一般大衆向けに分かりやすく、涅槃の教えを具体的に示したもの」と説明されています。なお、同じ記事にはトンデモ「日本」界の先輩的作品と言えるThe Darling of the Godsのロンドン公演に助けの手を貸した牧野義雄が関わることが書かれています。
Fuji-Koは同じく1906年に、鍋島化け猫騒動を題材にしたThe Vampire Catという一幕物の劇をすでに書き上げています。この関連事項として、「これをアメリカで上演したい」との発言がメディアに取り上げられたということがあります。1908年、この劇は実際に上演されました。(同年11月22日のThe Salt Lake Heraldがその際のことを詳しく報じています。)
2.生い立ち
Fuji-Koの活躍を報じる記事の中には、彼女の本名らしき名前も載せるものも認められます。1904年7月28日の『ヴォーグ』が次のように報じています。
この『ヴォーグ』の記事が正確で、Fuji-Koが報道されるような「Japanese(日本人)」でなく欧米人であれば、フローレンス・ヒースコート(Florence Heathcote)が本名だと言えるでしょう。
生い立ちについては、一度ばかり上掲した『ニューヨーク・タイムズ』の記事が詳しいです。Fuji-Koは「父はイギリス人、母は日本人でした」と語ったうえで、このように自分のことを語っています。
Fuji-Koの諸発言をそのまま受け入れるのであれば、日本に生まれた彼女は母の死後、イングランドとアメリカを行き来する生活を送っていたことになります。そのさなか、一度だけ日本に帰っているようです。この記事の時期から13年前となれば、計算すると、帰日は1895年の頃になります。また、インタビュー内容から判断すると、アメリカに初めて来たのは1900年前後だったということにもなります。
3.まとめ
……というように現時点で分かったことをまとめましたが、いかがでしたでしょうか。
――と、記事を締めくくろうと思いました。が、幸いにも、音楽界と演劇界の名士録である1914年のWho's who in music and dramaに、Fuji-Koのすべてと言えるほどに、詳しいことが掲載されていたので、ここに紹介します。
この名士録における出生の情報が正確であれば、Fuji-Koはわずか29歳で亡くなったことになります(死去の一報は、アメリカのコネチカット州の新聞The Norwich Bulletinにも載っています)。そして、Fuji-Koがイギリス人と日本人のハーフであったことも、確かなことだったと言えるでしょう。活動を始めた1903年(20歳の頃になります)は、ジャポニズム演劇のThe Darling of the Godsがアメリカとイギリスの両国でセンセーションを起こしている時期でもあったので、日本人の血を引く彼女にとっては、そのルーツを活かす好機だったでしょう。
しかし、日本が西洋の列強と肩を並べようとするなかで、欧米におけるジャポニズムのブームは衰退し、Fuji-Koもその波に巻き込まれて活動の幅を縮小せざるを得なくなったと推察されます。
歴史に埋もれた存在になったとはいえ、メトロポリタン・オペラ・カンパニーに対するFuji-Koの貢献が無ければ、現在も続く『蝶々夫人』の人気はネガティブに今と違う形になっていたか、続かなかったかもしれません。
こちらの記事が『蝶々夫人』の研究をなさっている方や、ジャポニズムに関心のある方にとって何らかの形で参考になることを願いつつ、今度こそ締めくくらせていただきます。最後まで、本記事を読んでくださった方に深謝申し上げます。
Cover picture from The Tatler No. 262, July 4, 1906
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