神仏に学ぶ我のなくし方は、日常生活にあった。
こんにちは、彼氏がいる女性ばかり、気になっては一方的に燃え上がり、告白しては、距離を置かれるという同じような恋愛を繰り返していることに気がついた恋愛ダメスターあきらです。
さて、今日は、「“いかにして我をなくすか”を焦点に神仏を勉強してたら、考え方が根元からごっそり変わってしまったよ」という話。
再三、こちらにあげているとおり、自分のエゴ(我)をとおして、世界を旅して大道芸をしたり、サーカス団をつくって、主催公演をしたり、自分の信じるまま、がーっと進んできました。
いや、それじゃあダメだ。
いままでのやり方で、思う結果を出せていないなら、「見切り」をつけるしかない。
「見切り」っていうとすごくネガティブな言葉の響きに聞こえるかもしれないけれど、どこかで「ここで粘っていてもしょうがない」とか「新しいやり方を試していこう」とか、そういう「切り替え」について、考えていく時期だと感じていたのです。
そこで、「我をなくす」ことが最重要課題と捉えた。
ただし、我をなくすために、必要なことはなんだろうかと歴史の勉強をしていたら、「南無阿弥陀仏」と唱える民の姿や、「唱えていたら、極楽浄土に行けますよ」と説いて回る聖人たちの姿に気づくこととなった。
信心深い彼らは自分よりも神さま、仏さまの存在に感謝し、生きることで、「精神的な安定」を持っていたように感じています。
そこで、神仏の勉強をしていたら、あるエピソードを見つけました。
とある人が弟子入りを許され、弟子となる。
弟子となってやらされることは、掃除や皿洗いといった雑用。
「なんでおれはこんなことをやっているんだろう」
そうお弟子さんが考えた矢先、お師匠様が一喝。
お師匠様のお弟子になって、3年が過ぎたころ、お師匠さんが、弟子に「おまえはもういい。次はトイレ掃除をしなさい。」
「神様、仏様に仕えるためにはな、ご飯を食べたら、皿を洗うと自然に身体が動いている状態になっている必要があるんだよ。」
はっと、させられました。
たしかに皿を洗わなきゃなと考えているようでは、我を持っている状態。ぼくもそうですが、人によっては、皿洗い嫌だなと感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか?
整理整頓、常に身の回りは綺麗にする。
そんな基本のこと…、身につけられていない自分が恥ずかしいなとも感じました。
だから、いまでは、1日1回は掃除。朝起きたら、神様へのお祈り。夜寝る前に、神様へのお祈り。
結果、悪いことがあっても、「神様のみちびきだ。仕方がない。」何か自分を成長させるために気づかせようとしているのだろうと捉えるようになりました。
ところで、好きになった人に好きだ好きだ好きだとなる状態は「我を持っている」状態。
自分を好きになってもらおう。自分に気がついてもらおう、ではなく、
ひたすらに素直に、自分ができることを自然と当たり前にやれる状態でいること。
相手のいいところをほめたり、相手が求めていることが叶ったり、相手の幸せをただただ願い、祈ったりすること。
そうすると、自然と人は集まってくるような気がしています。
とはいいつつも、「好きな人には好きです」って言わないと伝わんないですよね。
結果、振られようが、OKになろうが、結局のところ、「神様のみちびき」なので。
だから、少しでもいいなと思った方には、積極的に声をかけるようにします(笑)