気付いたら大学7回生になっていた
noteを始めるにあたって、まずは自己紹介を書いてみようと思ったら、自分が大学7回生になったことを思い出した。
どうしてこうなった。
原因を探るため、1回生から振り返ることにする。
1回生
私はまともに受験勉強をしなかったが、読解力という武器1本で京都のある女子大の文学部に入学した。この大学を選んだ理由としては、姉が同大学同学部であったことと、国語だけで受けられる入試があったことの2点のみで、正直いまいちどういった大学なのか分からないまま入学した。国公立も後期まで受けたが、国語以外何も勉強してなかったので普通に落ちた。後期に受けた大学の小論文の課題が茂木健一郎の文章を読んで書くものだったので、未だに茂木健一郎をちょっと恨んでいる。
知り合いが1人もいない環境だったので、友達ができるか不安だったが、ある講義で後ろの席に座ってた人がテニプリの跡部様の話をしていたので思い切って話しかけたところ、仲良くなれた。この友達とは彼女が大学を卒業してからもたまに会ったりしているので、跡部様には感謝しかない。
サークルにも入った。高校時代の担任の影響で、天文のサークルに入ることは決めていたが、自分の大学にはなかったので、近くの国立大のインカレサークルに入った。私の大学生活のほとんどはこのサークルで過ごすことになる。
肝心の大学の授業はというと、私は入学してすぐに大いなる壁にぶち当たることになる。
1限である。
これにどうしても出られなかった。1限の最初から出席したことなど、大学生活全部合わせても5回に満たないだろう。大学まで1時間以上かかる実家から通っていたことも原因の一つだが、なにせ起きられなかった。どうしても7:00に起きられなかった。
起きられない
これが私を7回生へと進ませることになる。
2回生
1限に行けないと、2限にも行けなくなり、午前が行けないと午後も行けなくなる。それを繰り返していたら前期が終わっていた。この頃になると完全に昼夜逆転生活となり、7:00に起きて1限に行かなければならないのに、06:30に寝て16:00に起きるといった生活をしていた。全く大学に行っていなかった訳ではなく、4限や5限などで出席できて単位も習得できたものもあった。前期の間は自分でも
「今日もサボっちゃったなぁ〜」
と思っていた。しかし、後期は心機一転大学に行くぞ!と決意しても思うようにいかなかった。起きようと思っても体が起きなくなっていた。堪え難い眠気に苦しめられ、それが自分の意思でどうにかできるものではないことを悟り、10月頃から通院を始めた。自分の自律神経がイカれていることを知って、少し気持ちが楽になった。イカれてるなら仕方ない。
2回生になる前の春休み、私はサークルである運命的な出会いをする。それは、部室にあったスーパーファミコンのゲーム、『ウルトラマン』だ。もともとウルトラマンが好きだったこともあり、このゲームにどハマりし、一時期は週5〜7日のペースで部室に通っていた。今はペースこそ落ちたが、部室に行くと大抵このゲームをしている。大学生活で取り組んだことを聞かれたとしたら、このスーファミの『ウルトラマン』と答えるであろう。
3回生
通院の成果か、前期は結構大学に行けた。しかし、4年で卒業するためには3回はもちろんフル単する必要があったが、前期の時点でそれが達成できなかったため、また病んだ。
「今日大学に行かなければ人生が終わる」
と毎日布団の中で震えいたら3回生も終わってしまった。
こんな状況でも、ゼミの単位だけはきっちりとれた。友達と同じゼミだったのも大きいかもしれないが、ゼミの内容は私にとってとても興味深いものだった。3回生は2つのゼミをとり、そのうちの1つを次年度に卒論を書くゼミとして選択するという制度だった。私はもともと決めていた近代文学のゼミと、新しい先生が来るから面白そうという理由で国文学のゼミを選んだ。
何をするのかよく分かっていなかった国文学のゼミだったが、これが意外にもとても面白かった。先生は辞書オタクで、ありとあらゆる辞書に精通していた。辞書オタクという存在に初めて出会ったので、私はすぐに興味を持った。先生は少し話し下手だったが、国語辞典の面白さを伝える熱量は物凄かった。様々な辞書の歴史、編集者の個性など、今まで知らなかった沢山の面白いことを教えてくれた。また、このゼミに入ったことにより、知りたいことを調べる能力が身についた。それまでは、知りたいことはたくさんあったが、それを調べる手段が少なく、結果として得られる情報も少なかったように思う。日本語って面白いなぁ、と思えたゼミだった。
近代文学のゼミはというと、こちらの先生は太宰治オタクだった。オタクというか太宰治の作品を研究してる先生だったが、太宰治を褒めると「ありがとうございます。」と言ってくるので、オタクと言って差し支えないだろう。内容としては、太宰治初期の短編を読み、先行研究を踏まえながら考察するというものだったが、これは私の得意分野だったようだ。「太宰治のことを分かっているのは私だけ…。」みたいな気持ちでバンバン考察した。あまりにも得意だったのでそのまま卒論のゼミにすることを決定した。
4回生
地獄の時代。はちゃめちゃ人間と化し、病みまくって人様に迷惑をかけまくった。もう留年が確定していたが、その事実から目を晒そうと必死に足掻き、でも気づいたら留年していた。秒。留年まで秒だった。正直あまり記憶がない。一瞬で過ぎ去った。
卒業しないくせに卒論は書いた。現代の作家は論文を書くのが難しいと忠告されたが、どうしても町田康の『告白』で書きたかったので、突っ走った。しかし、私が論文を書くペースより町田康が新作を出すペースの方が早かったので詰んだ。好きな作家の新刊が出て恨めしかったのは初めてだった。
友達が卒業して、大学に知り合いがいなくたなってしまった。知っているのはオタク先生たちだけになってしまった。
5回生
留年1年生。実質新入生。
もうここから頑張らないとやばい、毎日が勝負と気負いすぎてまた失敗。突然全部できるようにはならない。留年したので当然奨学金もストップ。教育ローンを借りてもらうも、積み重なった借金に恐れおののく日々。
留年して初めて気づいたが、留年しても意外と周囲はそんなに気にしてない。初対面の人に留年の事実を告げても、「へぇ、そうなんですか。」程度で終わる。この辺りから留年がちょっと面白いと思うようになってくる。
6回生
流れるように2留。誰も私を止められない。
ここに来て初めて、学期前に人に相談しながら時間割を決める。実は今まで履修登録がよく分かっておらず、いつも修正期間の最終日に適当に決めていた。そういうとこがダメ。でもこの年の私は違った。シラバスや履修要項を読み込み、卒業に向けた履修を組んだ!この時点で、6回生のうちに卒業することは単位の数からして不可能なのは分かっていたが、それでもやる気だった。初回授業に出られた講義は単位修得率が高いことは分かっていたので、バイトも休んで講義に出た。結果を言うと、フル単は無理だったが、履修した半分程は単位がとれた。他人からすればしょぼい単位数であるが、私にとっては大きな一歩であった。
前期をなかなか良いスタートで迎えた私であったが、ここで大きな問題にぶち当たる。金銭面である。私の家は裕福とは程遠く、本当は留年なんかしている場合ではなかった。夏休み、私は親から選択を迫られた。
「大学を中退してなんらかの職に就くか、自分でお金を稼いで大学に通うか。」
あまりにも真っ当な意見。ぐうの音も出ない。その通り。正論。私は色々ぐるぐる考えた結果、「社会に出たくない!」という思いが強いことに気づき、大学に残る選択をした。そして、2留してるのに今更休学して学費を稼ぐことにした。
この休学は私に良い効果をもたらした。大学に行かなければならないというプレッシャーから解放され、私のメンタルは少しずつ回復していった。回復すると、大学で勉強したいという気持ちも自然に湧いてきて、大学に対して前向きな気持ちを持つようになった。
7回生
休学してたからマジで気づかんうちに7回生になってた。在籍証明書に「7回生」って書いてあってビビった。字面の圧がすごい。
人生で一度も貯金ができたことがないので、学費が全然貯まってない。うける。でもメンタルが健康になってきたので、ジョギングをして中学の英語と数学を勉強しはじめた。偉い。天才。
これから
あと1年半は休学するとして、卒業は9回生になると思う。たぶん。9回生ってなんだ。聞いたことがない。多くて8だろ。いるんだろうけど見たことない。ここまでくるとだいぶ面白い。9回生の女。なかなか良いではないか。
私が私である限り留年はする
留年しないに越したことはない。ではどうすれば留年しなかっただろうと考えた時、自分らしく生きたらどうしても留年することに気づいた。思い返せば中学もまともに通ったのは中3のときだけだし、高校もよくサボってたし。毎日元気に通っていたのは小学生までだ。中学の頃に戻って真っ当な生活にやり直したいかというと、そうでもない。中学のときかなり悩んだりもしたが、小さなことに思い悩んだりするのは私の元からの性格で、自らの置かれている環境が広がったことにより、悩みが生じるのは仕方のないことのように思う。私は、悩み、つまずき、失敗し、回り道をして目的を探す。そういう人間なのだと思う。最近私はこう考えている。
「この長い大学生活は、私にとっては最短ルートではないか?」
私らしく生きた結果がこれなのであれば、留年も私らしいことなのだろう。4年で卒業するなど私らしくない。今はそう思う。