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ワイドショーを俺たちが求めるわけ
あんたも太田光さんの裁判のニュースを見たかい?
詳しく見てはいないんだけれども、どうも太田光さんが大学に裏口入学したって記事を雑誌に掲載して、そいつが事実無根だろって判決がでたらしい。
でも雑誌を出している出版社は即日控訴で戦い続けるつもりらしい。
その事実関係はわからないので、そこを深堀りは出来ないんだけれども、出版社の立場で「誰かのずる」を記事として販売しなければならない事情ってやつがちっと気になったんだよ。
だって、その記事をお金出して読みたいって思うヒトが一定数いるって意味だもんな。
今回は他人のずるについて考えてみる回だ。
ちっと自分自身の奥底をのぞいてみるかね。
ワイドショーが必要とされる意味
ワイドショーって番組形態があるじゃんか。
昔から「ワイドショーは嫌い」ってヒトが一定数いて、今もワイドショーで検索するとネガティブなことを書いてあるページがヒットしまくるよな。
やれ、誰それの上げ足取りだとか、誰かのミスをオモシロおかしくするのなんておかしいとか。
じゃあ、なんでそんな嫌われ者のワイドショーって形式は消えないんだろう?
ぶっちゃけだけれども、その上げ足取りってエンタメが必要とされているからじゃんか。
俺たちはどっかで起きた事件について「ああ、そうなのねぇ~」って思って、どっかで起きたスキャンダルについて「まあ、そうなの?」って思うわけだ。
この「ああ」とか「まあ」って感情の動きってやつは、実のところ俺たちにとってものすごく重要な要素なのかもしれない。
なぜって?
俺たちはその「驚き」って要素を日常の中で排除するために全力を尽くしているからだ。
俺たちは様々なことを予測しながら生きている。
それは俺たちにとって「予想外なこと」を排除する行動そのものだよな。
何しろ俺たちは約束したことを完遂するって義務を社会から担わされているわけだもんな。
刺激を欲する意味
ところがだよ。
俺たちは俺たちが理解できる範囲を広げたいって思いを常に持ち続けているってのもまた一つの現実だと思うわけよ。
本能的に俺たちは世の中に適合していくために学び続けていかないと対応出来ないってことを感じているってわけだ。
その学びってことのために俺たちはあらゆる情報をゲットしようって躍起になってるわけだと思うんだ。
それは誰かの発信している情報なのかもしれないし、テレビの番組かもしれない。
そう考えると、テレビのワイドショーってのは無為やたらにありとあらゆる「刺激のある」情報を届けてくれている。
その情報を俺たちは本能的に求めているってことなのかもしれない。
他人の不正義という刺激
じゃあ、その刺激の中で俺たちはなぜ「他人の不正義」って刺激を本能的に求めてしまうんだろう?
根っこにあるのは「自分が不正義になりたくない」ってのがあるんだと思う。
自らが不正義になってしまうと、自分が生きていていいって理屈を自分に納得させることができなくなっちまうからな。
だからこそ、自分は常に「正しい」状態でいたいと思うのがヒトという生き物が背負った業のようなものなのかもしれないと思うんだよ。
そして、もう一つ思うことがある。
ヒトはヒト以外に「正しくない」という状態を認められないってことだ。
誰だって「あのキリンは正しくない」とも「あの樹木は正しくない」とも思わないだろ?
いつだって俺たちが否定するのはヒトだ。
俺たちはヒトを否定することで、ようやく自分の正しさを実感出来るってことなのかもしれない。
そうだとすれば、俺たちは誰かを否定し続けるワイドショーを切り捨てられないって道理だよな。
でもさ。
俺たちは同時に「ワイドショー嫌い」って感覚を持ち続けているってのも現実だと思うわけだ。
だって、ワイドショーで検索した結果、嫌悪感ばっかりが引っかかってくるわけだもんよ。
なら俺たちは嫌悪し続けるものを求め続けているっていう、ワリカシ救いようのない結論が出てくる。
そうなのか?
俺たちは自分の暗部を求め続けているのか?
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは俺たちの暗部の上に立っているのか?