相手の価値を自分が理解するための物語
人が人に惹かれるってこと。
あんたは実感したことがあるかい?
俺自身は、「尊敬する人は?」っていうありきたりな質問に対して、答えを持てないようなワカゾーだったころがある。
どいつもこいつも、保身ばかり考えやがって。
そんな風に世の中を斜めに見ていた感じだったんだよね。
でもそれは、俺自身の視野の狭さが招いている無駄な誤解だったと思うんだ。
そりゃー見えている範囲だけで周りの人を評価していたんじゃぁ、人の価値なんてものはわかりっこないからな。
今回は、人の価値ってやつについてグダグダ考えてみる回だ。
まあ、気楽に付き合ってくれよな。
中途半端な視野
俺たちが学生だった時代。
ビデオはVHS花盛り。
コンビニなんて近所にはまだない。
街角に個人が経営する小さな本屋があった時代。
そんな時代に俺たちは学生時代を過ごした。
まだネットは世の中に浸透していなかったし、遊びといえば校庭を駆けずり回って遊ぶことが主戦場だった。
周りの大人は見える範囲の人しか知ることが出来ず、唯一にして最大の情報源はテレビだった。
そんなテレビに出てくる人々は、きらびやかな芸能界。
その芸能界だって、色々な調整ごともあるだろうし、生み出す苦労もあっただろう。
でも、そんなことは想像もしないで、額面通りの人物像をそのまま解釈していたよな。
ビートたけしさんが、フライデーに乗り込んでいった事件を見ていても、「馬鹿な大人だなぁ」くらいにしか感じていなかった。
そこにある芸能人という職業とプライベートの間にある課題には想像も及んでいなかった。
人の価値を推し量ること
じゃあ、そんな青少年である俺に今の俺は何が言えるんだろう?
あんたなら、何を伝えるんだろうな?
うまく伝えることができるかどうかは、なんとも言えないけれど、伝えてみたいと思うのは「人の価値ってのは自分が引き出さないといけない」って事かもしれない。
そもそも価値ってなんだって話なんだが、究極は「自分にとってどんなメリットが有るか」ってことなんだよな。
で、当然だけれども、すべての人は自分の価値観で生きているんだから、その行動が自分の価値観に寄り添っていることはまず無い。
まあ大枠では合っていることもあるとは思うよ?
人を殺しちゃいけないだの、物を盗んじゃいけないだのね。
でもそれが「自分の家族を守りたい」になってくると、事情が違ってくる。
誰だって、自分の家族と他人の家族の幸せを天秤にかけたら自分の家族を優先するもんな。
本質的に、俺たちは個人の目的ってやつを共有することは難しいんだ。
その前提に立って他人を見る。
それは、その人が持っている価値観を想像するってことなんだよな。
俺たちはそういう風に相手のことを想像しないと、相手の価値ってやつを見極めることすら出来ないってわけだ。
価値という物語
そんな個人の持っている価値観なんてものは、実態としては想像の産物に過ぎないのかもしれない。
それは宗教みたいなものだ。なになにが素晴らしいだの、なになにが美味しいだの。
俺たちは、俺たちの五感で感じているこの世界がみんな同じように感じているってことを証明することすら出来ないのにな。
この色は赤である。
そう言って、赤色を指して誰かが言ったとする。
それを見て、俺も「そうだね、それは赤色だ」と言ったとする。
それでも、その赤が俺の見ているものとあんたの見ているものが同じ色だと証明することは非常に厄介なものだ。
赤色の成分が同じということは言えるかもしれない。それを見ている目や脳の物理的な構造が同じということも言えるかもしれない。
でもその赤を俺とあんたがどう感じているか。
それを同じだと証明するには至らないんだよな。
でもそれを同じだと信じる。そうすることではじめて俺たちは何かを共同で始めることが出来るようになる。
つまり、相手の価値観を導き出すという行為は、相手と同じ目標という虚構を共有するという作業に他ならない。
人は虚構を共有することで今まで発展してきた。
相手を認めること。それは相手と同じ線路を歩んでいるという虚構があってはじめて出来ることなんだよな。
そのことを青少年の俺がわかるように伝える。
まあ、無理難題な気がするよな。
それでも、少なくとも今の青少年には伝えていく努力がいるよな。
そいつが先に大人になった俺たちの責任ってやつなんだろうから。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは、その物語をどうやったら子どもたちに伝えていくことが出来るんだろうか?