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物語における両極の対立
あんたの中にも、二律背反したなにかが共存しているって感じあったりするかい?
最近完結した鬼滅の刃にしろ約束のネバーランドにしても、主人公の中にこの二律背反の要素が含まれているってのをちょっと思ったんだよ。
例えば鬼滅の刃の主人公である竈門炭治郎の中には「鬼を倒さなければならない」という思いと「鬼を救いたい」という思いが、完全に同時に存在しているよな。
約束のネバーランドの主人公のエマの中にも「鬼から逃れたい」という思いと「鬼を救いたい」という思いが交錯している。
もしかしたらこの二律背反の同居ってのは物語のエッセンスとして大切なものなのか?
今回は物語の中にある「両極の対立」について考えてみる回だ。
ちっと俺の趣味に付き合ってくれよな。
考える切っ掛けをくれたnote
例によって俺がこの事を考える切っ掛けをくれたnoteがある。
毎度おなじみねむるまえにさんのnoteだね
「両極の対立」という表現で正反対のものが物語の中で対立するっていうのが物語の作りとしてあるってことを教えてくれている。
なるほど。当たり前っちゃ~当たり前だけれども、それが一人のキャラクターの中で起きるってのがポイントってことなのかもしれないな。
物語全体として、何らかの対立要素があるってのはある意味必須なことだよな。
ガンダムなら地球連邦とジオン公国。
鋼の錬金術師ならお父様とヴァン・ホーエンハイム。
彼方のアストラなら生きる意思と死ぬ意思ってところか。
それがキャラクターの中で同居しているって要素はたしかに魅力的なのかもしれない。
宇宙戦艦ヤマトに見る「両極の対立」
宇宙戦艦ヤマトのオリジナルが作られた頃、いわゆるリアル系アニメの急先鋒として世間に受け入れられていたこのアニメも、今となってみると古典の部類に入るわな。
リメイクされた2199と2202はもはや別の作品として楽しむとして、今回考えてみるのはオリジナルの方だ。
その数ある作品の中の初代ヤマト。ガミラスと地球の戦いを描いたあの作品だ。
その中でこんな台詞がある。
我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。
愛し合うことだった。
出典:宇宙戦艦ヤマト
これってよ。見事な「両極の対立」の構図だと思うんだよね。
宇宙戦艦ヤマトは戦艦だ。戦うための船だ。
でもその目的は「敵を滅ぼす」ことではなく、「イスカンダルにある放射能除去装置を持って帰る」ことなんだよな。
ところが行きがかり上、ガミラスとの戦いは避けることが出来るはずもなく、結果としてガミラスという星を滅ぼしてしまう。
自分たちがしたその殺戮とも言える行為の結果を目の当たりにしてのセリフだ。
生き残ること。
殺し滅ぼすこと。
それが同居せざるを得ない戦争という状況。
その悲惨さを子供の頃の俺はうまく飲み込めていなかった。
だって地球が救われるんだからいいじゃんってさ。
でもオッサンになった今。
この悲惨さを森雪のこのセリフが端的に表していたってことが今更ながらに染み渡ってくるんだよね。
私にはもう、神様の姿が見えない!
出典:宇宙戦艦ヤマト
この神様こそが「両極の対立」の象徴なのかもしれない。
絶対的な正義の象徴である神。
その神を信じて突き進んだ先にある殺戮という絶対的な悪。
これまで幾度となく繰り返されてきた宗教戦争。
その戦争という状況が産み出す様々な悲劇。
神は幸せと道徳を与えるのと同時に略奪と差別を与えてくれる。
なんたる両極の対立なんだろう。
スラムダンクに見る両極の対立
名作と言えばスラムダンクにだって両極の対立がある。
山王戦。最終盤。
これだよな。
認めたくない。
認めたい。
この究極にシンプルな両極の対立。
この究極の状況をほぼ絵だけで表現している画力もスゴイけれども、ここまで徹底的に「認めたくない」を描ききっていた故に、この絵が生きるんだよな。
ああやっぱり「認めたい」んじゃないかってさ。
こう言う作り込まれた両極の対立ってのはやっぱり名作に宿っているんだなぁ。
なあ、あんたはどうだい?
あんたの中の名作にも「両極の対立」って描かれているかい?