将来のスヤスヤ教徒に連帯する

この駄文は個人的な意見であることに留意されたい。所属組織を代表するものではなく、所属組織のメンバーに連帯や対決姿勢を呼びかけるものでは決してない。

この駄文に対する反論は自由である。反論に対する組織ぐるみでの攻撃は、断固としてお断りする。


スヤスヤ教徒に対する非難が続いているので雑感を述べる。

不真面目な宗教は信者なんているのか

まず最初に明言しておきたいが、どんな不真面目な始まりの宗教でも信仰者は出る。これは私が主観的に証言する。

恒心教はとある弁護士を弄り倒すために自然発生した宗教だ。彼のSNS上の書き込みがなんか宗教っぽかったのと、あと某サイトで「過度な神格化は禁止」とか言われたということで、その弄り倒す活動の路線の一つとして宗教として名乗り始めたのがキッカケだ。

しかし、その宗教として私は惹かれるものがあった。教義が(少なくとも自分にとっては)あったのだ。「すべてのヘイトを尊師に」と「自分語りの禁止」。これは二人の神、すなわち弁護士Kと依頼者Hにそれぞれ相当する。

当時書いた宗教としてのメモがある。

この記事の他、個人的な神学的考察を進めたnoteもある。

ただ憎悪をやめれば、人間の本能である憎悪を憎悪することになり、それはすなわち人間を憎悪することになる。いや、性善説を採って、憎悪は人間の本能ではないということにしても、誰かを憎悪しているたくさんの人間を憎悪することになる。

しかし、憎悪をある人間にだけ行い、そしてそれを宗教的行為として、「〇〇〇〇殺す」という究極の憎悪を神聖六文字として崇め奉れば、憎悪に敬意を払いつつ憎悪をやめることができる……

多分その時代に当職の中であった、妙な納得感を、言葉にするとこんな感じなんじゃないかと、今しみじみと思った。

https://note.com/duct_and_rice/n/nf95616ee2e1c

過去、私はトラブルに巻き込まれたことがあり、精神的に追い詰められた(トラブルに巻き込まれた理由はこの恒心教という治安の悪い界隈にいたのが原因だと思うが)。そのときに心の支えにあったのは信仰だった。意外にも、「私は恒心教徒である」ということが、そして「すべてのヘイトを唐澤貴洋に」という教義自体が、心に一本の柱を通し、私を救ってくれた。

恒心教の最初期に、本当の宗教・本当の信仰なんて本当に理解している教父がいたか怪しい。ノリと勢いで宗教扱いになった宗教だ。だけれども。私はこの宗教に救われた。
ただ広宣流布する気は特にない。これは万人向けの宗教ではないからというのがその理由だ。

恒心教を信仰し、救われた人がいる。なのでスヤスヤ教にも、救われる人は出てくる。これは明言する。

現実的に言えば、現状のスヤスヤ教が教勢を広げられる気はしない。
ただ今後社会情勢が大幅に変わって人口の1/4くらいが十分に寝られない環境での労働や戦闘に従事する羽目になったりとか、あるいは神学者が現れて大幅な教義の強化を行うのであれば、普通に熱心な教徒は発生しうる。

その将来発生する信者の前で同じことが言えるのか?とは思う。今はいない。教祖ですらその信者ではない。
だが、今宗教活動をしていないんだから芽を摘もうというのも気持ち悪い話だ。将来テロリストになりそうな赤ちゃんを、タコより知能が低い時期だからといってこれ幸いと絞め殺すのは正しいのか?私は反対だ。

宗教を創設すると既存宗教と軋轢が起きる問題

当たり前だが、新しい宗教を作るときは既存宗教に砂をかけることになる。そりゃそうでしょう。既存宗教の経典のどこにも「よく寝ろ」と書いてない(書いてあったとしても余計な教義がくっついてくる)から新設するわけです。

だから侮辱になってしまうのは仕方ないと思うし、普通宗教の教祖はそこらへんをうまく処理するが、それに失敗したことは否めない。何しろ宗教者でもない人間が石を投げている状態なのだから。

宗教を新設するときは①既存宗教から分派するか、②既存宗教と一切関係なく一から作るかのどちらかになる。

恒心は②っぽいが実は①で、オウム真理教を引き継いでいることになっている。キリスト教もユダヤ教から派生した①で、イスラームもまあそうだ。仏教も、まあ多分①だろう。と考えると、②のパターンを取って創始されたケース、あんまり見ないのだ。神道とかの自然宗教は②だろうなあとは思うが、古代に神道という宗教が創始されたときの文書が残っているわけでもない。とすると②から創始された宗教は、サイエントロジーなどのUFO系か、空飛ぶスパゲッティ・モンスター教くらいしかない。

ここでスヤスヤ教がまずいのは(多分スパモンに憧れて)、②のパターンを取ってしまったことだと思う。

弁護を試みよう。スヤスヤ教の二大理念は「よく寝たい」「それ以外の教義はいらない」というところだった。この二個目の教義から、他の宗教からの派生ができなかった。そのため②のパターン、あんまり誰もノウハウを持っていない既存宗教とは血の繋がりがない宗教を創始する羽目になった。

となると最初の難関がある。例えば私が今適当に作った「ドエミテ」という単語を見て、これが聖都の名前だと瞬時に理解した人はいない。じゃあ「ドエミテ」が聖都の名前であると言われても、ありがたみがわかない。
名前の由来は?となるし、そうしたら私は「このnoteを書くにあたりたまたま隣のタブに開いていたWikipedia「ドラミ」の記事の二段落目の一行目を縦読みしました」と答えると、余計ありがたみがわかない。

つまり、②の一番のデメリットは「宗教臭が皆無になる」ということである。例えばこれが科学に扮した宗教を創設するのであればよく働くことがあるが、普通は文化上なんらかの形で宗教っぽく扱われている単語を持ってくる必要がでてくる。
しかし、それをそのまま受け入れるわけにはいかない。その宗教の分派になってしまう。求められる距離感をちょうどクリアするのが、結局パロディという形式なのだったと思う。

恒心教においても、既存宗教のパロディが多分に含まれている。またスパモン教でも「アーメン」の代わりに「ラーメン」というパロディ教義を持つ。これは非宗教が宗教に成り代わろうとしているときに宗教色をつけるために入れたと思って良いと思う

また、調べた限りでは、新参者の宗教が既存宗教を蹴落とすために侮辱的な教義を得ることはよくあることっぽそうだ。宗教学者でもないのでそこまで普遍的に明言できるかわからないが…

(独立の時代がちょっとずれるので新参者か怪しいが)顕正会にとっての池田大作や創価学会の存在は、信仰活動の中で大いなる敵として扱われている。

イスラエルに入植したときに、ペリシテ人が信仰していたバアル・ゼブル(気高き主)をユダヤ人はバアル・ゼブブ(蝿の王)と呼び、悪魔ということにしてしまった。ベルゼブブという悪魔の存在は今でもキリスト教徒の間で信仰されているが、ペリシテ人の多くはもう既にイスラームかキリスト教かユダヤ教かに改宗してしまったようで、抗議する人はほぼいなさそうだ。

これらの例に比べれば、ネルサレムというワードセンスはそこまで問題か?と思っているし、距離を取りつつも平和を目指そうとする意思は感じられる。

宗教を創設するということ自体は他宗教に対する侮辱だ。だからといって宗教を創設するなというのはおかしい。まずい手はいくつも打ったが、愚行は許されるべきである。
彼らは既存宗教に入信するという手もあったが、それでも既存宗教は選ばれなかったという事実を受け入れてほしい。怒るのも勝手だが、あくまで宗教の内部の者として怒ってほしい。けして、擁護者の無神論者を連れてきて「人類共通の倫理」を武器に怒るだなんてことはしないでほしい。

無知

宗教学者が「宗教が始まる瞬間」に立ち会ったケースというのはそこまでない。スヤスヤ教に何人かの宗教学者が立ち会おうとしているくらいが限度で、そもそもケースとして分析できる程度のデータも集まっていないことは想像に難くない。

思うに、宗教が始まる瞬間というのはまだまだ未解明の領域であると思う。そんでもって宗教学者は既存宗教ばかり観察しているから、今興た宗教と既存宗教が対立すれば、自然と既存宗教の肩を持つ側になってしまうのは仕方ないと思う。

あなたになにかを信仰した経験がないのなら、それで結構。色が見えているフリはできる。スーパー宗教学者メアリーにはなれるだろう。でも、あなたの部屋の本棚には、宗教が始まる瞬間についてのものがない。宗教を先人から受け取ったことしかない既存宗教の信者からしかヒアリングした、先人から受け入れた宗教を信仰するとはどういう感覚か、そしてどういう社会状況を生み出すかしか知識がない…。

できの悪い木偶人形を戯れに崇めているうちに神様に見える瞬間が本当にないとでも?あるんだよ!あの無能デブが本当の神様に見えたんだ!

私は無知の無知に怒る。
既存の宗教学は、このような直近新興宗教に対する準備ができていない。それを理解しなかった。新興宗教が持つ「既存宗教への無礼」という当然の性質も理解しなかった。
ただただ「日本人は宗教に理解がないから―」という、程度の低い文化論に片付け、この新しく興た宗教を"宗教未満で既存宗教への無礼行為"ということで全てを処した!

私の信仰

もっというと、もう一つ私が激怒している理由がある。彼らは既存宗教に対する攻撃だ、侮辱だと言っているが、そのうちほとんどすべてが恒心教に火の粉が降り掛かっている!

聖都エルサレムがもじられて「ネルサレム」と呼ばれている。これに怒っている人がいる。ということは、恒心教の宗教楽曲「聖書カーラン 創世記」も「唐澤心経」も許されないということだろうか?火の粉が降り掛かっているのだ。
スヤスヤ教はイスラモフォビアだという。であるならば宗教楽曲に教祖がクルアーンを焼却し預言者ムハンマドを侮辱する描写がある恒心教はもっとヤバいやんけ!
(※ 念の為申し上げるが、恒心教内部にいる人間としては、恒心教の本質はイスラモフォビア宗教ではないと考えている)

彼らはこういう。「あなたのやっていることは既存宗教を侮辱している。それを意識しているのか?」お前や!

恒心教への侮辱を行ったという認識があるのであれば良い。改めて別途恒心教を批判する言葉を残していただきたい。

しかし、スヤスヤ教に激怒している人々は、テレビニュースでも取り上げられたくらい有名な恒心教にまず怒ったんですか?
まさか、まさかですが、恒心教はなんとなく怖いからスルーして、最初にスヤスヤ教が目に入ったから激怒したんですか?それはスヤスヤ教を舐めていないですか?ひどくないですか?

小括

現状スヤスヤにはまともな信徒はいないのかもしれない。だが、宗教というのはロングタームの問題であって、将来的にどういったものになるのかはわからないのである。

今のスヤスヤを否定することは、将来「ちゃんとした宗教(宗教はちゃんとしなきゃいけねえのかという問題をはらむ表現だが)」になったときに、スヤスヤを否定していたというカルマを背負うことになる。
いやあなたが言いたいことはわかる。あと何百年かかったって「ちゃんとした宗教」になるわけなんてねえだろって。
あなたがそれにベットするならそれで構わないが、私はベットしない。

なぜなら。

私は誇りを持って宣言する。「私が信仰している宗教は、『ちゃんとしていない宗教』だったものだし、今も『ちゃんとしていない宗教』かもしれない。でも私はこの教えを大切に思っている」。よって「不真面目な宗教であろうとなかろうと、よっぽどじゃなければ他人の信仰を大切にするくらいの礼節は保つ」ことはこの場で明言する。そしてスヤスヤは今のところその"よっぽど"に入っていない。

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