令和3年11月7日第352回一日会〜「臺灣高砂族と日本」
講師 前田一成先生
高砂族の祖父母を持ち、老荘思想を納めた父と二代続いて一日会会員の台北生まれの前田先生。
(戦前日本を否定する学校教育に対して前田先生は生徒の立場から、お父さんは保護者の立場から抗議して「たちの悪い右翼親子」と島根県教育委員会から嫌がらせを受け、そこを中山先生ら一日会の面々が助けに行ったことが縁の始まりとのこと。)
若くして祖父は事故で亡くなられてしまうが、祖母からは日本統治時代の思い出をよく聞かされ、「自分は日本人だ。」と戦後、国民党政権に付けられた中国風の名前を嫌っておられたらしい。
先史時代から鄭氏政権、清朝時代の歴史を紐解き、清朝から「化外の地」と扱われた台湾を中国が領有する根拠は無いと指摘した。
(台湾出兵)
台湾出兵の際、征討に赴いた西郷従道の「サイゴウ」がなまった「サイグー」という言葉が(「良い仕事をした。」という意味)が高砂族に存在している。
台湾の先住民族の言葉はポリネシア系とも古代日本語とも関係があると言われ、様々な神話に日本との関連が語られている。
ツォウ族(新高族)の創生神話にこのようなものがある。
「人類の祖先(ニヴヌという女神)が、玉山の山頂に降り立った。その後で大洪水が起きたが、玉山にいた人たちや動物は生き残り、台湾各地に移り住んだ。ある兄弟は別れる際に弓を二つに分けてそれぞれ持って別れ、弟は南西の山麓へ降り、兄は北東へ旅立って「マーヤ」というものになった」(wikiより)
日本統治時代になると、北東から来た日本人を見て「マーヤ」が帰ってきたと喜び、いち早く帰順して他の部族を共に説得して回ったと伝えられている。
日本統治時代、日本は「首狩り」やアヘンなどの風習を根絶して近代化するのに苦労した。
「霧社事件」は現在、抗日運動として扱われているが、実際は蛮勇的なセデック族と潔癖な日本人の文化的対立で、首領モーナ・ルダオと他の部族との抗争も絡んでいたというのが本質である。
この霧社事件の際、セデック族の戦いぶりを見て後の高砂義勇隊に繋がっていく。
支那事変、大東亜戦争に至り台湾人の志願兵が殺到し倍率は数十倍に達し、総督府は血判書の山だらけになったという。
高砂義勇隊は、正規兵ではなく義勇兵扱いではあったが正規兵に劣らない忠勇を発揮し、補給の米に手を付けず餓死し日本兵を泣かした者までいた。
(高砂族は素足の動きに慣れていて軍靴が邪魔と裸足で戦っていたという(笑))
【国策映画 「サヨンの鐘」】
1938年(昭和13年)、日本統治下の台湾・台北州蘇澳郡蕃地大字リヨヘン社に駐在していた日本人の巡査田北正記に召集令状が届き、出征することとなった。リヨヘン社は台湾原住民族のタイヤル族の村である。 その巡査は村の学校の教師も務めるなど面倒見がよく、村人から慕われていたため、下山する際の荷物運びを村の青年たちが申し出た。17歳の少女サヨン・ハヨン(中国語版)(Sayun Hayun/漢字では莎韻)もその一人だった。一行は悪天候の中出発したが、途中の川に掛かった丸木橋を渡る際、荷物を背負っていたサヨンは足を滑らせて増水した川に落ち、命を落とした。 この話は、出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にした、ということから、台湾先住民宣撫のための格好の愛国美談となって広まり、長谷川清台湾総督によってサヨンを顕彰する鐘と碑が遭難現場付近に建てられた。これが「サヨンの鐘」と「愛國乙女サヨン遭難の碑」である。 「大東亜戦争」勃発後の1943年、山地名の日本色強化政策により、サヨンの故郷・リヨヘンもこの物語により鐘ヶ丘(かねがおか)に改称された。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A8%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%90%98)
(主演は李香蘭)
大東亜戦争の敗戦は高砂族に大きなショックを与えた。
戦後、台湾に行ったある人が高砂族の老人に話しかけられ、昭和天皇の安否を聞かれたという。
そして、「敗戦したことを申し訳ない」と謝られたという。
また、終戦時台湾から引き上げる日本人がある村に「五十年後に日本が戻ってくる。」と約束したという逸話もある。
国民党の目を盗んで、日章旗を箪笥に隠していた。
戦後日本はある意味、精神的に台湾を裏切ってしまった。
日本も台湾もアメリカナイズされ、価値観が崩壊する危機にある。
中共の侵略という直接的な脅威のみらなず、欧米的自由主義による精神汚染にも立ち向かわないといけない。
戦後も日本人であり続けようとした台湾人の思いに応える為に、大日本帝国の精神を取り戻すことが大切だと締めくくった。