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スイープトウショウと角田晃一

タイトルを見て、スイープトウショウといえば池添謙一でしょ、と思った人も少なからずいるかもしれない。

異論はない。ただ、僕にとってスイープトウショウと聞いて名前が最初に上がるジョッキーは角田晃一なのだ。


そのあたりの話を少し書いてみようと思う。


大好きだった角田晃一

競馬をやっていると、好きな競走馬はもちろん、好きな騎手なんかもできたりする。

僕が一番熱心に競馬をやっていた(観ていた)のが高校生から大学生くらいのときで、そのときにもっとも好きだったのが現調教師の角田晃一だ。


好きになった直接的な出来事は覚えてないけど、まず見た目がカッコよかった。あと、大舞台に強く(成績が下降していって以降も、G1になるとデットーリになると某掲示板に書かれてたり)豪快な騎乗が魅力的だった。


個人的にはノースライトとのコンビが大好きで、現3歳時に挑んだ府中牝馬Sで角田が減量して騎乗し(斤量が50kgだった)、みごと勝利。

続くエリザベス女王杯でも2着に食い込む(ベガはベガでもホクトベガのときのエリ女。当時高校生だったけど、これ現地の京都競馬場で見てた)。

これからが楽しみ!ってなったときに武豊に乗り代わりとなり、その後は重賞を3連勝。満を持しての安田記念となったところで、武豊はノーザン所有の外国産馬スキーパラダイス(1番人気)に乗ることになり、ノースフライトの鞍上は角田晃一のもとに戻ってくることに。

同レースでノースフライトは、後方から直線一気の豪快な末脚を見せ、快勝。2着も角田のお手馬だったトーワダーリンで、同馬の鞍上で同期の田中勝春とのハイタッチが印象的だった。

その他、ヒシミラクルとかジャングルポケットとかいろいろあるけど、今回はひとまずスウィープトウショウの話。

渡辺栄厩舎・最後の大物スイープトウショウ

角田晃一は、渡辺栄厩舎の所属騎手としてデビューし、渡辺先生が定年で勇退されるまでフリーにならず、ずっと渡辺厩舎に所属した。

また、渡辺栄はシンザンなどを手がけた名調教師・武田文吾の一門で、同門の鶴留明雄、山本正司といった調教師が管理する馬に騎乗する機会も多かった。


渡辺先生は、規定で2004年2月に勇退することが決まっており(調教師は70歳で定年)、その前年の2003年にデビューしたのがスイープトウショウだった。

新馬戦を快勝した後、ファンタジーS(G3)に臨み、こちらも見事な差し切り勝ち。暮れの阪神ジュベナイルフィリーズ(G1)に進み、1番人気に押されるも出遅れがたたって5着。

年明け早々の紅梅賞に出て、1.3倍という圧倒的な一番人気に応えて後のオークス馬ダイワエルシエーロ以下を押さえて勝利する。ここまで角田が手綱を取った。

スイープトウショウの乗り替わりは既定路線!?

調教師が定年退職で厩舎が解散する場合、新規調教師がそのまま厩舎を引き継ぐか、いくつかの厩舎に所属馬が分散して引き継がれるか、このどちらかのケースが一般的だ。

渡辺栄厩舎の場合は後者で、同じ武田門下である鶴留明雄厩舎などに所属馬が移籍となり、スイープトウショウも鶴留厩舎の管理となる。


そこで気になったのが、クラシック戦線に向かうスイープトウショウの次走以降の鞍上で、継続騎乗となれば当然主戦だった角田晃一となるが、鶴留厩舎には池添謙一が所属しており、同騎手への乗り替わりが噂されていた。

鶴留先生は昔気質の調教師で、兄弟子であった渡辺栄先生がそうであったように騎手の育成にも力を入れ、所属馬の鞍上のほとんどを所属騎手=池添に任せていた。この傾向から鑑みると、角田から池添への乗り替わりは規定路線のように思われた。

ベテランへの支援も手厚かった鶴留調教師

鶴留調教師は若手騎手だけではなく、ベテランにも手厚かった。

当時、40代半ばとなっていた小島貞博は戸山為雄厩舎解散後(戸山師の逝去により厩舎が解散)、騎乗馬に恵まれず、なかば干されたような感じになっていた。

戸山調教師の逝去(1993年5月)により、同厩舎で調教助手をしていた森秀行調教師が厩舎を引き継ぐ(1993年3月に調教師試験合格。同年9月に開業)。森は、「戸山が重用してきた弟子であり、森のかつての同僚である小島貞博、小谷内秀夫を降板」させる。この降板劇は、競馬サークル内の一部で物議を醸しだすが、これにより大半が自厩舎の馬の騎乗だった小島貞博、小谷内秀夫の騎乗機会は激減し、フジヤマケンザンやレガシーワールドなどの有力馬もすべて乗り替わりとなった。

そんな小島に手を差し伸べたのが鶴留(同氏は騎手時代、戸山厩舎所属で、小島の兄弟子になる)で、「まだまだやれる」と自身の管理場の騎乗を任せる。小島もそれに応え、

  • チョウカイキャロル・オークス(94年)

  • タヤスツヨシ・ダービー(95年)

と大舞台で結果を残す。

ちなみに、タヤスツヨシはサンデーサイレンスの初年度産駒で、同産駒初のダービー馬となるわけだが、同世代に幻の三冠馬と呼ばれたフジキセキ(父サンデーサイレンス。同年3月の弥生賞を勝ったあと骨折が判明し、電撃引退⇒種牡馬に)がおり、その主戦が角田で、ここにも因縁がある。


これまでの鶴留の行動原理から、スイープトウショウの鞍上に関して、角田から池添の乗り替わりはないと思った。

普通だったら、十分乗り替わりは考えられるが、森による小島・小谷内降板事件に憤り、小島にチャンスを与えた鶴留だ。いくら自厩舎の愛弟子とはいえ、これでもし乗り替わりとなったら、小島への支援はなんだったんだ!ってことになるやん、とか思たりしたんだけど、結局スイープトウショウは次走のチューリップ賞から池添が鞍上となり、その後角田が同馬にまたがることは二度となかった。

スイープトウショウの思い出

主戦・池添となったスイープトウショウは、その後、

  • 秋華賞

  • 宝塚記念

  • エリザベス女王杯

と3つのG1を勝つ。個人的に印象に残っているのが2005年の宝塚記念だ。


学生時代のバイト先の先輩に声をかけられ、このレースは阪神競馬場の現場で観ていた。競馬場に行くのは学生時代以来数年ぶりで、だから印象に残っているのかというとそうではなくて、まあそれもちょっとあるけど、その何日後かに仕事で東京に行ったとき、今は亡き高校の同級生のYとの会話をおぼえているからだ。

レースは、前年の宝塚記念優勝馬で、前哨戦の金鯱賞も快勝したタップダンスシチーが1番人気で、半年の休養明けが懸念されたが前年の秋の天皇賞、ジャパンカップ、有馬記念という秋の古馬の三大レースを制したゼンノロブロイが2番人気。4歳になり、本格化の兆しが見えてきたハーツクライが3番人気で、以下4番人気リンカーン、5番人気コスモバルクと続く。


スイープトウショウはというと、前走安田記念で2着したというのに、11番人気とまったく人気がなかった。理由は、

  • 明け4歳となった同馬の初戦は5月の都大路S(OP)で、1番人気で5着

  • 都大路S(OP)を叩き、迎えた安田記念(G1)では10番人気で2着

  • 秋華賞馬とはえい年明けのOPで古馬の男馬に歯が立たず、安田記念2着もフロックと思われていた

  • 何より、当時宝塚記念は牝馬が全然勝っておらず、その時点「消し」が定石だった

ちなみに、僕の本命はタップダンスシチーで、一番人気で安定感があったから選んだのではなく、2002年の有馬記念をシンボリクリエスータップダンスシチーの馬連①-⑧を1点で取って以来、僕はタップダンスシチーを買い続けていた。

結果は、スイープトウショウが豪快に差し切り、牝馬として34年ぶりにグランプリを制覇。2着にも同じく後方から追い込んできたハーツクライが入り、馬連で万馬券となり、単勝も3850円着いた。


で、話は戻って友人Yとのエピソードで、当時Yは司法試験をめざし、予備校に通うために東京に住んでいた。東京で仕事があった折りにYに連絡を取り、いっしょに飲みに行って、その日はYが当時住んでいた阿佐ヶ谷のマンションに泊めてもらった。

家についてからもコンビニで買ったチューハイを飲み、その際におもむろにYが「そういえば、こないだの宝塚記念、井崎脩五郎が本命-対抗で馬単1点で的中させてん」と言って、録画していた『スーパー競馬』を見せてくれた(僕は関西在住なので、『スーパー競馬』は普段見れず、同系列で放送される『ドリーム競馬』を見ていた)。

まったく予想が当たらない井崎脩五郎が、馬単を1点で的中させるのは事件で(しかも28,280円の万馬券)、酒のサカナとして格好の話題だった。


その3年か4年後くらいにYは突然亡くなるわけだが、Yの家で話したそのスイープトウショウが勝って、井崎脩五郎が大的中させた宝塚記念のことが、印象として残っている。

死んだ友人のエピソードがそれかよ!ってつっこみがあるかもしれないけど、Yとはそんな頻繁に会ってたわけでもないってのもあるけど、そもそも思い出なんて劇的なもなんかじゃなく、第三者から見て他愛のない、いたって普通の、どうってことのない話がほとんどなんじゃないのかなと思ったりもする。

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