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ペルガモンのイシュタール門

(2500字)
ペルシャ帝国の歴史を学ぶと、やはり歴史的遺物の多いイラク・バグダット博物館に行きたくなる。しかし、1990年代は湾岸戦争後からイラク戦争へ続くはざまの時代であり、バグダットは荒れていた。イランからバスで山越えをして行けないことは無かったが、国境でHIVの血液検査をされるというのを聞いて、行くのを止めた。いや、検査で自らの陽性を恐れてではなく、注射針の不衛生を恐れてだ。それに、歴史的価値のある“いいもの“は湾岸戦争とイラク戦争で全てアメリカ軍が本国に持ち去ったらしいので、まぁ、命懸けで見に行く価値もなかったかなと、自己説得している。

バグダットに行く代わりに、大英博物館やルーブル美術館を巡り、ペルシャ時代やそれ以前のバビロン時代の歴史の思い出を訪ねた。が、今一つ物足りない。
同僚に聞いたら、ドイツにも相当な中東の遺物の蓄積があるとのこと。
1989年11月にベルリンの壁も壊れたことだし、旧・東ベルリンのペルガモン博物館を仕事が終わってから訪ねることにした。

テヘランからスイスエアーでチューリヒに飛んで空港内で一仕事をして、そこからフランクフルトまでルフトハンザで1時間ちょっとのフライトだ。ルフトハンザのフライトでは朝食が出る。スイスエアーの豪華だったと思われる夕食は何を食べたか思い出せないが、ルフトハンザの朝食は今でも思い出される。ドイツの白パンにチーズが挟まっただけのシンプルなやつだったが、どちらもめちゃめちゃ美味かった。

本題に戻ると、いつものフランクフルトで仕事を済ませ、テヘランに帰るまでリハビリと食料調達のための4日間の休暇が貰える。この休暇を利用して、初めてベルリンのティーゲル空港に飛んだ。三角形のターミナルで、方向感覚が分からなくなる、厄介な空港だった。

ブランデンブルグ門を東側(写真奥)から西側へ歩いて抜けた

東西の分断の歴史的現場を見るべく、ベルリンの壁へ向かった。
展望台みたいなところに立ち、壁を壊した上に透明なアクリル板を貼ったような場所を歩き、高台の上から周囲を見渡す時に、日本はドイツや朝鮮のような分断国家にならなかったことの幸せを思った。ブランデンブルグ門も大きく開かれており、冷戦終結の5年後の世界には表面的には東西の分断の面影はもう無かった。

ベルリンの壁から歩いて東ベルリン側の街をうろつき、橋を渡り川の中洲にあるペルガモン博物館にたどり着いた。守衛さんも西側の太ったドイツ人とは異なり、痩せて精悍な(ちょっと怒っていて怖そうな)東側のドイツ人という印象が強く残ったのを記憶している。

イシュタール門のムシュフシュ

バビロンにあったという再現されたイシュタール門を見た時は、鮮やかな色と壮麗な門構えが圧巻であり、そこに立ち尽くした。デジャビューで昔そこに居たような感覚になった。
これを見るためにだけでも、はるばる“東“ベルリンまで来た甲斐があった。
帰りに、ムシュフシュのお土産をお守りとして買い、30年近く経った今も中東に出かける時には縁起物として持参している。

秘された歴史を想像するに、メソポタミアの地にはシュメールなどの古代文明が芽生え、その土地で生命の文明実験もあっただろうと思った。想像物と思われているムシュフシュなどの怪物も、実際にはメソポタミアの地に天から降りてきた神として、「悪い子はいね〜がぁ〜」と街を闊歩していたのかも知れないと想像した。

フランクフルトの市場で豚肉を調達して帰る

テヘランへの帰国前のもうひとつの仕事は食料調達だ。ドイツの皮付きポークは中東へのお土産の必須アイテムだ。そのために、スーツケースの半分を空けてフランクフルトに行く。これは、サウジとクウェートとイランでは豚肉の市場販売は無いので、ドバイやヨーロッパに時々買い出しに行っていた。そう、若い頃は豚肉を長く食べないと禁断症状が出て、自分の姿がムシュフシュに先祖返りする。

せっかくのベルリンなので、郊外まで電車で行ってポツダム宣言が起草されたポツダムの施設や宮殿をいくつか見てからフランクフルトに戻り、ほぼ豚肉だけのお土産と書類と現金などを抱えて夜の空港に着く。アメリカに意地悪されていてSWIFTコードが無いので、国外へ出た時にドルを持ち帰るのだ。

中東行きの便はヨーロッパのどこの空港でもだいたいターミナルビルの一番端からの出発であり、搭乗口に歩いていくにつれて黒のチャドル姿の人が多くなり、楽しかったヨーロッパの旅も終わったのだなと否が応でも感じる。LH600便の搭乗口のあるターミナルの一番端に着く頃にはなんだか物悲しくなる。

さらに、寂しさに追い討ちを掛けることは、端に行き着くまでに日本行きの便の搭乗口とすれ違う時だ。観光客と思われるオバチャンたちから、お節介で「あなた、搭乗口はそっちじゃないわよ。」と声をかけられることが度々ある。そんな時は、「ああ、そろそろ日本に帰りたいなぁ。」という気分になる。丁寧にお辞儀をして、ポークのタップリ入ったスーツケースを思い出して心のテンポを上げて、端の暗い雰囲気の待合室に向かった。

イシュタール門をみてから、かれこれ30年近くが過ぎるが、いまだにバグダット、バビロン跡などの史跡地には行けていない。ここ10数年はイラク北部のクルド人の住むエルビルのクリスチャン地区(至る所に酒屋があって珍しいお酒が買えるし飲める)で仕事をしてドバイに帰るぐらいで、バグダッドには乗り込めていないのが心残りだ。
エルビルの郊外では、当時イスラム国とクルドの軍隊のペシュメルガが戦争をしているため、なかなか周辺の遺跡の豊富なニネベなどの古代アッシリアの都市にも行けなかった。これは、某アメリカ親子大統領の稚拙な軍事作戦で、中東の多部族社会を壊して収拾がつかなくなった結末であり、中東ではイラク、アフガニスタン、シリア、リビア、イエメンなど、アメリカが起こした資源のつまみ食い戦争で多くの人々が死んでいる。

かつて多部族をまとめる力のあったサッダーム、カダフィのような強面でキャラの濃い人材はもう、中東世界にはいないのだろうか?いや、アメリカを袖にしてペルシャと仲直りしたアラブの盟主MBSがいた!これからの中東世界が楽しみだ。(了)

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